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郷土の歴史

2012/03/30
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カテゴリ:郷土の歴史

ぐうぜんこの「会津戊辰戦争終結の地」の看板を見て脳裏をよぎったのは、、、、福島県が原発を受け入れなければならないほど貧しかった理由です。会津降伏式で戊辰戦争終結となったわけです。すなわちそれは、天皇家に忠誠を尽くした会津が、逆賊の汚名を着せられての敗戦であったためそれ以降、政府からはほど遠い位置に置かれることとなったことが原因ではなかったということです。

それが故に、福島県は貧しい県とならざるをえなかったのではないだろうか。それが原発誘致による原発マネーを受け入れる土壌となっていたであろうことが推測されるわけです。風が吹けば桶屋が、、、的な論法かもしれませんがあながち無縁とは言い切れないであろう。


  • 会津戊辰戦争終結の地.jpg


会津戊辰戦争終結の地
泣血氈(きゅうけつせん)の誓い

明治元年(1868)9月22日午前10時、1ヶ月の籠城戦に耐えた鶴ヶ城に遂に降伏の白旗が掲げられ、会津戊辰戦争は終結しました。この日の正午、錦旗を擁した西軍の軍監・中村半次郎等を迎え、会津降伏式が行われました。式はここ甲賀町通りの路上で行なわれたのです。

会津を訪れたら、この「会津戊辰戦争終結の地」に立ってみてください。
場所は、宮泉銘醸・會津酒造歴史館の西南の角にこの看板が建ってあります。

検索から戊辰の役/殉難者 のことを知り、ついこのあいだまで会津に住む方々が長く長州憎しと云い伝えられてきた意味合いをも知ることができました。いっぽう薩摩に攻められて負けた庄内藩は、現在の酒田市に西郷隆盛を祀る南州神社を建てたわけです。戦後処理のありようは、人の上に立つものの器が明暗を分けたようです。












最終更新日  2012/03/31 02:13:54 AM
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2011/11/25
カテゴリ:郷土の歴史

古事記は来年、編纂されて1300年ということです。
ですから編纂されたのは712年(奈良時代)ということです。

そこで古事記のことを調べてみました。

古事記とは現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼(ひえだのあれ)が天武天皇の勅で誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上されました。

上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)まで、
中巻は神武天皇から応神天皇まで、
下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。

712年(和銅5)とは、奈良時代、
元明天皇が唐の長安(今のシーアン)にならって、現在の奈良市の西に平城京をつくる(710年)。「あをによし 奈良の都は さく花の にほふがごとく 今さかりなり」(万葉集)


郡山市の歴史では

天湯津彦命の10世孫であられる比止禰命(安積国造神社初代)は、第13代・成務天皇5年(135年)、勅命により安積(あさか)国造に任ぜられ、安芸国から当地、郡山にへ赴かれました。

成務天皇5年(135年)9月、諸国に令して、行政区画として国 郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った。ここにおいて、人民は安住し、天下太平であったという。



日本で作られた本、いわゆる和書の歴史は、洋書の歴史とは異なり、いきなり紙の本から始まる。『日本書紀』によれば610年に朝鮮の僧曇徴が中国の製紙術を日本に伝えたと言われ、現在残っている最古の本は7世紀初めの聖徳太子の自筆といわれる法華義疏であるとされている。また、奈良時代の本の遺品は数千点にのぼり、1000年以上昔の紙の本がこれほど多数残されているのは世界に例が無い。


万葉集  日本最古の歌集。全二十巻,四千五百十六首の歌が収録されている。成立の過程は不明。七世紀に柿本人麻呂らが集めた歌集を底本に,八世紀に大伴家持が個人的な歌集も加えて取り纏めたことは間違いないと思われるが,最終的にいつ,誰の手によって成立したものかはわからないままである。


日本書紀 日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は奈良時代に成立した日本最初の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、720年(養老4年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。日本最初の歴史書。日本紀とも。原名は「日本紀」説と「日本書」説が共に有る。古事記と比べれば日本書紀の文字と条理性が遥かに上で歴史書の性格が強い。解釈書に『釈日本紀』がある


古今和歌集 『古今和歌集』は巻頭に仮名で書かれた仮名序と、巻末に真名序の二つの序文を持つが仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に選ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、 延喜5年(905年)4月18日に奏上された。ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られる。撰者は紀貫之、紀友則(編纂途上で没)、壬生忠岑、凡河内躬恒の4人である。



新古今和歌集  鎌倉時代初期、後鳥羽上皇の勅命によって編まれた勅撰和歌集。古今和歌集以後の8勅撰和歌集、いわゆる「八代集」の最後を飾る。『古今集』を範として七代集を集大成する目的で編まれ、新興文学である連歌・今様に侵蝕されつつあった短歌の世界を典雅な空間に復帰させようとした歌集。古今以来の伝統を引き継ぎ、かつ独自の美世界を現出した。「万葉」「古今」と並んで三大歌風の一である「新古今調」を作り、和歌のみならず後世の連歌・俳諧・謡曲に大きな影響を残した。



源氏物語  平安時代中期に成立した日本の京都を舞台とした長編物語、小説である。文献初出は長保3年(1001年)で、このころには相当な部分までが成立していたと思われる。紫式部の著した、通常54帖よりなるとされる。写本・版本により多少の違いはあるものの、おおむね100万文字・22万文節[9]400字詰め原稿用紙で約2400枚[10]に及ぶおよそ500名余りの人物が登場し70年余りの出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」[11][12]と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。




枕草子  平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」とも表記され、鎌倉時代に書写されたと見られる現存最古の写本・前田本の蒔絵の箱には『清少納言枕草子』とある。古くは『清少納言記』、『清少納言抄』などとも称した。


方丈記  鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら)によって書かれた鎌倉時代の文学作品である。日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後に執筆された 吉田兼好の『徒然草』、清少納言の『枕草子』とあわせて日本三大随筆とも呼ばれる。鴨長明が晩年、日野山に方丈(一丈四方)の庵を結んだことから「方丈記」と名づけた。末尾に「干時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これをしるす」とあることから、1212年(建暦2年)に記されたとされる。

徒然草 吉田兼好(兼好法師)が書いたとされる随筆。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。鎌倉時代末期、1330年8月から1331年9月頃にまとめられたとする説が主流であるが、数多くの説があり定説はない。中年期の兼好が著したことになるが、若い時代に書いた文章も含まれているという説もある。 兼好が書いたとする明確な証拠は何一つない。

序段を含めて244段から成る。文体は和漢混淆文と、仮名文字が中心の和文が混在している。序段には「つれづれなるままに」書いたと述べ、その後の各段では、兼好の思索や雑感、逸話を長短様々、順不同に語り、隠者文学の一に位置づけられる。兼好が歌人、古典学者、能書家などであったことを反映し、内容は多岐にわたり、また、兼好が仁和寺がある双が丘(ならびがおか)に居を構えたためか、仁和寺に関する説話が多い。

おくのほそ道 元禄時代に活動した俳人松尾芭蕉による紀行文集。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして…」という序文により始まる。

作品中に多数の俳句が詠み込まれている。「奥の細道」とも表記されるが、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「おくのほそ道」の表記法をとっている。読み易い文庫判は、岩波文庫、角川ソフィア文庫、講談社学術文庫がある。









最終更新日  2011/11/28 01:45:49 PM
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2011/11/06
カテゴリ:郷土の歴史

くぐり橋 由来

くぐり橋

三春ダムから放流された水が流れる大滝根川沿いに「斉藤の湯」があります。
その斎藤の湯「下の湯」の手前に、大滝根川に橋がかかっております。
その橋のとなりに水かさが増すと川の中に沈む「くぐり橋」があります。
完成は明治31年=西暦1898年ですから、今をさかのびること113年前です。
花崗岩を切り出して3年の月日を費やしてつくりあげたとのことです。
千年に一度の東日本大震災にあっても壊れずにありました。
腕の確かな人達がつくりあげたことが証明されました。

「下の湯」が発見されたのは、この橋が完成してから3年後ということですから今年は開湯110年ということになります。

風呂あがり石橋渡る滝根川 往時を偲ぶくぐり橋かな

この橋のすぐ近くに斎藤の湯(下の湯)があります。
斎藤の湯(下の湯)は良くあたたまる湯治温泉としてよく知られています。

下の湯にて風呂上がり

下の湯で湯にひたってあたたまると湯あがりに汗が噴き出してきます。










最終更新日  2011/11/14 09:45:10 PM
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2011/09/08
カテゴリ:郷土の歴史

facebookのかきこみを拝見して会場に足を運んでみました。太々神楽の演目は古事記のストーリーを演じている日本独自のミュージカルであるかもしれません。新たな発見でした。そして世界のミュージカルと比較してみてもその歴史と伝統ではトップクラスかも知れません。民俗芸能を専門とするカメラマンの須田さんに郡山市内には19カ所の太々神楽を奉納する神社があることがわかりました。

アトリエかしわ、須田悦弘写真展(ふるさとの民族芸能・太々神楽)9月5日(月)最終日に訪問
 
写真展

そこそこの神社には神楽殿があります。神楽殿では舞いを奉納します。
どんな舞を奉納しているのか、よくわからなかったのですが
写真展に足を運びましたら、古事記ゆかりの奉納舞であることを知りました。
そのシナリオは古事記を題材としているとのことです。
そこで興味が湧いてきました。
我が国、最古の書を演劇またはミュージカル仕立てにしたものが太々神楽となったことを知ったわけです。

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■神楽は神遊びともいい、宮廷で神を祭る際の舞楽です。
天宇受売命(あめのうずめのみこと)を遠祖とする猿女さるめが代々伝えてきたといわれています。

■これに対し、笛太鼓を鳴らし村の鎮守様氏神様に奉納する神楽を里神楽と言います。里神楽は全国各地で行われていますが、演目は岩戸開き、大蛇退治、猿田彦、八幡舞、稲荷舞、竜神舞など共通しているものも多くあります。

■岩戸に隠れてしまった天照大御神に再びお出ましいただくために岩戸の前で天鈿女命(火之御子社祭神)が舞い踊ったのが 「神楽」の始まりといわれております。

■伊勢の奉納神楽で奉賽の多寡によって定められた神楽の等級を表す名称。のち、奉納神楽の美称となった。








最終更新日  2011/09/08 01:44:18 PM
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2011/06/01
カテゴリ:郷土の歴史

花かつみ


ヒメシャガ(アヤメ科アヤメ属)別名:「花かつみ」 わが街、郡山市の花になっています。花の大きさは3~4cmこの季節、可憐に咲く花です。先週那須野ヶ原に伺いましたら、庭に咲いておりました。

歌匠、松尾芭蕉が奥の細道を歩き、この「花かつみ」を郡山にて尋ね歩き見つからず幻の花と云われた「花かつみ」です。

郡山市では、昭和49年、郡山市制施行50年を記念し、ヒメシャガを「ハナカツミ」として市の花に制定しました

芭蕉が奥の細道の旅に出たのは1689年でした。今をさかのぼること322年前です。

2008.5.13 郡山市役所内で花かつみの展示がありました。

2008.5.23 「安積山の歌木簡発見」のニュースが新聞に載った。

現代花かつみ考より






最終更新日  2011/06/01 10:48:00 AM
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2011/01/09
カテゴリ:郷土の歴史

たのしみはわがふるさとの知らなんだ 未知なる歴史学び知るとき

第1回 安積歴史塾 1月8日午後5時半~
 安積国造神社会館3F
 丹治徹塾長『万葉集・安積山の歌』のテーマで講演

万葉集に収められている歌で証拠の歌木簡が初めて発見されたのがわが郷土に関係する「安積山の歌」でした。紫香楽宮(しがらきのみや744年11月~745年5月)で発見されたのが2008年5月ですから、実に1263年を経て世に出てきたわけです。発見者の栄原永遠男大阪市立大学教授が当地に来られての特別講演会は大盛況でした。

1.8  安積歴史塾

2011-01-08-午後5時半~

会場が満杯になる盛況でした。郷土の歴史に関心を持つ人が多いことがわかりました。現在の虎丸町・長者町地域にはまだ奈良時代の遺跡が地下に眠っているとのこと。瓦も地元で焼いていた。瓦を模した「長者せんべい」は今は売られていないことを知りました。

感動した葛城王が携帯用の歌木簡に書き留めたであろう「安積山の歌」は、采女が葛城王の心情を察して、いまこそ私の出番であると、歌を詠んだのであろう。心情を察する歌を詠まれたので感動されたのであります。葛城王はのちに左大臣(現在の内閣総理大臣にあたる)を18年間勤めました。その間、万葉集の編纂を大友家持に指示する。そのときに「安積山の歌」とそのエピソード(詞書)を伝え、推薦したということです。

歌木簡引換券


講師の丹治徹さんは、以前講演を聞いたときに実物大の歌木簡を自分でつくって披露しましたが、今回は講演を聞いた方に歌木簡をプレゼントするということで引換券を渡されました。自分で「安積山の歌」を書き込んでみてくださいとのことです。粋な企画をするものですね。

わがいのち 歴史とともに ここにあり この真実に 気づきけり

安積歴史塾:毎月第2土曜日の5時半から開催 @500円
次回は2月12日 歴史作家の星亮一さん「勝海舟と郡山」








最終更新日  2011/01/10 10:19:17 PM
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2011/01/06
カテゴリ:郷土の歴史
麓山の滝

麓山公園にある「麓山の滝」は、安積疏水の竣工を祝って造った滝でした。長い間埋まった状態でしたが、掘り起こして復元し人工滝として復活させたものです。
2010年11月14日(日)
AM8:19撮影

安積疎水麓山の滝の案内板には「 この滝は、郡山市発展の礎である安積疎水工事の完成を祝って、明治15年に勇気ある開拓者たちの手によって造られ、以来、昭和の初期まで時の流れを見つめて「麓山の飛瀑」として広く人々に親しまれてきたものである。それ以降は滝の大半が埋められ、ほんの一部分がその面影を残していたが、平成の時代になり、安積開拓の先人の偉業を後世に伝えるため、麓山の滝を復元しようという気運が高まり、平成3年4月に郡山市民のシンボルとして麓山の滝が蘇ったものである。 」とあります。


安積疎水麓山の滝は平成14年に国登録有形文化財に指定されました。

所在地:郡山市麓山1丁目347









最終更新日  2011/01/07 11:48:35 AM
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2010/10/17
カテゴリ:郷土の歴史

坂上田村麻呂伝説より

「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」と言われてどのくらいの人が知っているだろうか、征夷大将軍、徳川家康の名は知らない人はないでしょうが、坂上田村麻呂は、知名度は低いかもしれませんが、わが国、初代の征夷大将軍を名乗ったお方です。歴史に疎いほうなので、今から30年位前に名前を知ったような次第でした。そして京都の清水寺建立も坂上田村麻呂であったと知ったのはつい最近のことでした。

現在、2010年ですから、坂上田村麻呂誕生は758年、今からさかのぼること1252年前、奈良時代、万葉集のできる前年のことです。

谷地神社
わが家から直線距離約2km位のところにある谷地神社(やちごんげん)です。
谷地神社は、坂上田村麻呂の生みの母、「あくたひめ(阿口陀媛)」を祭った神社です。


谷地神社 1.

谷地神社 2.



近くに田村麻呂誕生の産湯に用いたと云われる「産清水」があると聞いていたので探しましたら、今でもコンコンと清水が湧き出ている小さい池がありましたので動画を撮ってきました。

湧水
郡山市郡山市田村町徳定地内(動画はこちらへ)

湧水

もう一方の池.
もう一方の湧水からの池には大きな鯉がゆうゆうと泳いでおりました。


蓮池のほとりにある谷地神社.
蓮池のほとりにある谷地神社の位置は → 郡山市田村町徳定字泉田27の北西となり

■ 伝説、田村麻呂公で町おこし

■ 日本史年表


私の住む郡山市の歴史で一番古いものは、何だろう?ということが気になってきます。これを機会に町の歴史をさかのぼってみることにしましょうか。



















最終更新日  2010/10/17 09:08:49 PM
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2010/09/30
テーマ:感じたこと(2928)
カテゴリ:郷土の歴史

郡山市民がもっとも心待ちにしているお祭りと云われる八幡様の秋祭り。9月27日(月)、28日(火)、29日(水)の3日間、郡山総鎮守 安積国造神社秋季例大祭が開催されました。

最終日の昨日の夜7時ころ、そういえば9月末に、郡山の秋祭りと云われている「安積国造神社秋季例大祭」がおこなわれることを思い出してweb検索しましたら、自分のオンしてあった動画に遭遇、今年の開催日時が知りたいわけです。そこで数日前の新聞を確認しましたら、最終日であることを知り、急きょ防寒対策をして足を運びました。

最終日は神輿還御ということなので、神社の正面入り口、表参道の階段口にてデジカメを構えて神輿を待ちました。担ぎ手のワッショイ、ワッショイの掛け声と御神楽の囃子が融けあい日本の祭りだなぁ~を実感しました。眺めているだけでウキウキしてくる祭りです。

郡山総鎮守 安積国造神社秋季例大祭  神輿

秋季例大祭 1
神輿還御 (動画はこちらへ)


神輿がこの秋祭りにくりだすようになったのは江戸時代半ばの明和2年(1765)からだそうですから245年の歴史ある神輿ということになります。新聞発表によると氏子の青年が担ぐ神輿は31社だそうです。もっとも最近の担ぎ手は外国の方や女性もいっしょになってワッショイワッショイとやっています。先頭の提灯持ちにも女性が進出しています。男女雇用促進法の普及もあってか神輿祭りへの参加は男女の別はなくなっているようです。

私も一度は神輿を担いでワッショイワッショイとやってみたかったのですが、年齢を考えると祭りに参加している同年代の知り合いは、先導役やら手提灯持ちの顔役で、もはや神輿を担ぐ年齢をこえてしまったようです。まだ気持ちだけは若いのですが暗闇で足元の小さな段差にもけっつまづくような状況です。幸いにもまだ、つんのめって怪我をするまではいたらず、とっさに体制を立て直せますが、いかんせん足のあがり具合がわるくなっているかもと自認せねばならないのかも、、、。











最終更新日  2010/09/30 01:46:31 PM
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2010/09/29
カテゴリ:郷土の歴史

かつて福島県にあった藩の数は、15藩、2番目の9藩あった長野県をぬいて断トツ1番多いということを先ほど知人からの電話で知りました。「城と寺」の書き込みをしようと日曜日の26日からディスクトップに置いて追加書き込みしようかなと思っていたら携帯電話が鳴ったわけです。城のこと思ったときに彼を思い浮かべたわけですが、3日目に電話が先方から掛かってきたわけです。彼からの電話は2年ぶりだろうか。これって今日のシンクロニシティでしょうね。

福島県内にみる城下町の寺。城下町にはお寺が多いのはなぜ。城下町では、寺院を城の外縁にまとめたり、通りの要所、要所にいざと云う時の敵からの侵入を防御する役目を担った。藩主の墓所となっている寺や神社の位置関係は、城の鬼門(東北)か裏鬼門(南西)の位置になっていることが多い。


霞ヶ城
これは箕輪門です。かつて天守閣は山の頂上にありました。現在、天守閣の石垣だけ積み直したものがあります。

■二本松市には霞ヶ城

二本松藩が誕生した寛永20年(1643)、初代藩主丹羽光重が10万700石で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として、220有余年続きました。戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、慶応4年(1868)7月29日に落城しました。

箕輪門
城壁と箕輪門

台運寺は、寛永20年(1643)、丹羽藩三代光重が白河から二本松に移封された際に、白河常宣寺の第四世往蓮社生誉学山上人により開山されました。創建後、数度の移築を経て、最終的に現在地に移ったのは、寛文7年(1667)とされています。光重は当寺を丹羽家代々の奥方の菩提寺とすると同時に、芝増上寺にならった御霊屋を設け、丹羽藩の初代長重が授かった台徳院殿(二代将軍秀忠)の位牌を祀りました。台運寺は霞ヶ城の鬼門(東北)に位置しています。

台運寺
台運寺の本堂

徳川将軍御尊牌
なぜ、二本松市のこの寺に徳川将軍の御尊牌があるのか疑問が湧いたわけです。

丹羽家御内室御廟
二本松藩、お殿様の丹羽家御内室御廟がありました。



■会津若松市には鶴ヶ城があります。

土津神社(はにつじんじゃ)は、福島県耶麻郡猪苗代町にある神社である。会津藩初代藩主・保科正之を祀っている。土津神社は延宝3年(1675年)、磐梯山麓見祢山の地に葬られた保科正之の墓所に造営された。土津神社は鶴ヶ城の鬼門(東北)に位置しています。




■三春町には、三春城跡(舞鶴城)

福聚寺は、鎌倉時代の創建で、三春藩藩主・田村家の墓所ともなっている。
福聚寺は、舞鶴城の裏鬼門になっている。

■白河市には小峰城








最終更新日  2010/09/29 06:27:19 PM
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