1794654 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

オンリーワン理念は、思いや志を文字にて表現してまとめたものです。言葉のチカラです。

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール


新鮮美感@川島

カレンダー

カテゴリ

お気に入りブログ

心の故郷特別号 New! よびりん♪   さん

森伊蔵酒造 五代当主… New! 神谷商店さん

運動はクスリ New! ヨーガ1950さん

うどん餃子 2019.10… New! 森3087さん

2019.10.20またまた… New! 銀河のかっちゃんさん

敷地内の邪魔だった New! 宋休さん

たそがれさんの空、… New! たそがれの写真家さん

コメント新着

 新鮮美感@川島@ Re:ソウルフード(09/02) この次に復活させたいのは「ねぎぬた」 …
 新鮮美感@川島@ Re:たのしみは(08/21) 独楽吟を私は、2019.10.4現在341首を詠ん…
 新鮮美感@川島@ Re:中学校の同窓会に参加(11/20) 3年後の2019/11/17(日)12時~  館林市…
 新鮮美感@川島@ Re:ソウルフード(09/02) 復元がいちばん難しいかと思われた ・…
 新鮮美感@川島@ Re:写真修正ソフト(07/22) このBLOGの書き込みから約6年、1日2食をつ…

フリーページ

全70件 (70件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 7 >

郷土の歴史

2019/10/15
XML
カテゴリ:郷土の歴史


台風19号の襲来で、今まで見たことがなかったハザードマップを確認してみました。まず地元・郡山市のハザードマップにアクセスしようとしたら考えることは皆同じようでアクセス集中していたのかなかなか開けない状態になっていた(12日夜)ので諦めて、国土交通省のハザードマップに!こちらはすぐに見ることができた。

時間があったので群馬の実家周辺のハザードマップを見てみたら、神社やお寺は水没から免れた高い場所に建立されていたのです。そして「成島」という地名があるのですが、関東平野の中に「島に成る」という名前が不思議だったのですが、ハザードマップを見たらみごとに島に成っていることがわかる。きっとかつて渡良瀬川や利根川が決壊して氾濫したときの景色から命名された地名であることを確信したのです。まだ堤防ができる以前はちょくちょく洪水が起こっていたのではないだろうか。堤防づくりの多くは世の中が落ち着いた江戸時代に築かれたものだと云われています。

ショックなのは私の実家はハザードマップでは水没地域に染まっていた。2階に移動すれば大丈夫だろうが、水道施設のある場所などが洪水地域になったらしばらく復旧まで時間がかかるであろう。

地球規模での温暖化と云う気象変化によって大型化する台風による洪水。その洪水の危機が起きるかもしれないとなったとき、生活圏の危機意識が今までとは変わるでしょうね。



国土交通省のハザード・マップ






最終更新日  2019/10/16 05:51:24 PM
コメント(0) | コメントを書く
2019/10/01
カテゴリ:郷土の歴史
安積開拓発祥の地と云われる郡山市開成館を訪問

その開成館を見学後に目にとまったのがこの「安積開拓入植者住宅(旧小山家)」です。明治15年(1882)に四国、松山から牛庭原(現・安積町牛庭地区)に移住した「愛媛松山開墾」15戸の内の一戸で当時の開拓者の代表的な住宅の形を今に残すものだとのことです。

なぜ着眼したかというと私が幼いころ住んでいた借家とほぼ同じサイズなのです。左右反転した間取りで屋根は寄棟藁屋根でなく切妻十能瓦でした。東京オリンピックのあった1964年まで間借りしていた間取りサイズが、82年前のものとほぼ同じであり私の育った家の方がやや粗末な建屋に思えた。わが家は家族5人で生活していました。

この開拓入植者住宅(旧小山家)には囲炉裏がなく、炊事場も屋外だったといわれ、それが色濃く残っている。また井戸と厠もありませんでしたが私には子どものころの暮らしから、だいたいの予測がつきます。安積町牛庭地区は現在のわが家から近いので牛庭を散策してみたいと考えます。

また関西方面から郡山まで来るのに気になったのは船で利根川を遡り群馬から栃木に入ったと解説を耳にしました。となると当時のルートを考えると赤岩の渡しで舟を降りて赤岩から足利へのルートだとすると育った群馬の実家のほど近いところを通過してきた可能性があります。小学5・6年のころ社会で安積開拓にふれましたが故郷・篠塚を通過して開拓民が郡山に入植したとなれば、なんとも機縁を感じるものです。














最終更新日  2019/10/02 12:21:04 AM
コメント(0) | コメントを書く
2019/09/21
カテゴリ:郷土の歴史
私の住む郡山の歴史から

40年ほど前は、宿場町として歴史の中で特に誇れるものはないと云われていた。
ところが今は、縄文・弥生遺構も多くあり東北最大の古墳もこの地にあったことが発見された。
マンモスの歯までも発見されて古代にはマンモスが闊歩していたのがわかった。

地面の下に隠れていた古代の遺構も掘り起こす専門家が掘り起こす予算がついてこそ初めて発掘が始められるわけです。国の予算は東北地方は後まわしになったので、掘り出される遺構が少ないので東北地方は未開の地と思われていたのが実態でした。

大安場古墳は、郡山市田村町大善寺大安場に前方後方墳が1基、円墳が4基ある。
このうち1号墳の前方後方墳と2号墳の円墳が国史跡に指定(2000年9月6日指定)されている。
1号墳は全長が約83メートルあり、4世紀後半(いまから約1,600年前)につくられた。
前方後方墳としては、東北地方で最も大きいもの。
2号墳は、直径が約15メートルあり、5世紀後半(いまから約1,500年前)につくられた。






最終更新日  2019/09/21 12:10:07 AM
コメント(0) | コメントを書く
2019/09/14
カテゴリ:郷土の歴史
ふるさとの名物・名所を検索してみましたら、実家から約1km範囲内で知らなかった名所を見つけました。

子どもの頃の行動順路でなかったこともあり、親などからもその話を聞いたことがなかった。関心もなければその存在を知らなかったわけです。まずシラカシの巨木です。そして南朝の武将細谷右馬助秀国の墓所である五位堂。

シラカシの全国各地の巨木

まず。武将細谷右馬助秀国とはどんな人物であったのだろうか。

細谷右馬助秀国は泉福寺を建てたとあったので検索してみたら、火事で燃えてしまったとの記述があった。その火事を現場で箪笥など運び出すさまを見物していたことを思い出した。民家だと思っていたがあれが泉福寺だったのか。53年前の記憶です。


1966年(昭和41年)2月11日(金)泉福寺は焼失しましたが神社は難をのがれ寺跡には現在の集会所が建設され古来変りなく坪谷、水立、大黒中の人々のふれ合いの場となり伝統的文化と信仰が受け継がれています。その泉福寺と稲荷神社は細谷館から見て鬼門の方角に細谷右馬助秀国が1348年(正平3年)に籠宮山観音院泉福寺を建立して戦乱に散った一族家人の冥福を祈ったとあります。




五位堂のシラカシについて
南朝の武将細谷右馬助秀国の墓所が五位堂です。この墓所を覆うシラカシの巨木は、樹高18.5m、幹は4本に分かれ、幹周りはそれぞれ2.6m、1.6m、0.6m、0.9m、枝張り東西16.5m、南北18.1m、根回り6.6mです。
境内には千一体仏が安置され、子授け仏として信仰を集めてきました。現在でも、木製の小さな仏像を借り受け、子宝に恵まれると返す習わしがあります。

南朝の武将・細谷右馬助秀国とは
1347年(正平2年・室町時代に入りまもなく、672年前)、新田義貞一族の武将細谷右馬助秀国はこの地に居住するにあたり丹後国与謝郡府中にある籠神社(伊勢神宮・豊受大神の本宮)から分霊を祭って鎮守として群馬県邑楽町篠塚に細谷館(ほそややかた)を築城した城主。

1773年(江戸時代の安永2年)正月に京都から伏見稲荷を泉福寺へ勧請して農民生活の守護神と仰ぎにぎやかな祭礼が行なわれて来ました。明治維新の神佛分離令によって稲荷神社は泉福寺から離れて西隣の籠宮神社に移され社屋は青年集会所となりました。1938年(昭和13年)に現在の社殿を新築して社号を稲荷神社とし奥殿に籠宮大明神と稲荷大明神を安置奉祭したとありますが、近在の人は皆、稲荷神社と呼んでいました。

 
 ----------------------------------

細谷館の他にその北に「篠塚館」があった。

大字篠塚の、県道152号線沿い「馬場」という地名の所に篠塚館があった。

この付近には『太平記』でよく知られた豪傑篠塚伊賀守重広の供養塔や案内板が立てられているのだが、篠塚屋敷は、この篠塚伊賀守の居城であったと云われる。
 
篠塚館の所在地は、 群馬県邑楽郡邑楽町篠塚馬場2796 
現在新井氏宅が元弘の頃(1331-33)篠塚伊賀守重弘の館跡と云われている。方70m程の二重堀の塁であったらしいが、今はその堀跡も辿る事が困難と言う。
西部に毘沙門堂があり、西南外に八幡社が見られる。重弘の墓は大信寺にある。

県道を挟んで東側には「陣屋」という地名が広がっていて、江戸時代中期に松平忠恒(まつだいら ただつね)の陣屋がおかれていた場所であるという。

松平 忠恒は、享保5年(1720年)、桑折藩第2代藩主松平忠暁の次男として生まれる。陸奥桑折藩の第3代藩主、のち上野篠塚藩、上野上里見藩を経て上野小幡藩の初代藩主。忠尚系奥平松平家3代。






最終更新日  2019/09/19 01:01:56 PM
コメント(0) | コメントを書く
2019/03/28
カテゴリ:郷土の歴史
静御前堂・供養祭

毎年3月28日は、静御前の供養祭がおこなわれています。
今年も詩吟の会で静御前の吟を12名で吟じてきました。静御前は約800年前に亡くなり全国各地に終焉の地といわれている所があります。当地郡山市にも静御前ゆかりの地名が残り毎年供養祭を開催されています。

外気温8℃ですが西風が吹き屋外は肌寒い中、ふるまわれた甘酒を飲みながら出番を待ちました。終わりには紅白の餅まきがおこなわれ2ヶゲットです。昨年と同じく手を挙げた手の平に飛び込んで来た丸餅が1ヶありました(^_-)-☆

静御前堂の裏には円墳の古墳があります。古墳の上に生えていた木が今年は根元から伐採され無くなっていました。

郡山市田村町細田にある光照寺の念仏堂(明和9年(1772)建立)が建立された12年後の1784年(天明4年)に再建された静御前堂です。共に釘が1本も使われていない建物です。静御前堂の再建するにあたって交流があったとみるのが妥当かもしれません。










静御前堂・例大祭に詩吟の奉吟を仲間12名で参加。終えてからいただいた弁当です。


昨年参加した静御前例大祭2018









最終更新日  2019/03/29 11:21:33 PM
コメント(0) | コメントを書く
2019/03/08
カテゴリ:郷土の歴史
143段の石段を上るとそこには3間四方の念仏堂がありました。明和9年(1772)建立、完成まで31年かけたということです。247年前です。時の将軍は徳川家治 (10代目)でした。江戸神田の彫工による30頭の龍・象・獅子など彫刻が細部にまで施されていて彩色が色落ちているが創建当時はさぞ美しかったことが偲ばれます。














光照寺の念仏堂(郡山市指定重要文化財)

光照寺(こうしょうじ)は、福島県郡山市田村町細田に所在する天台宗の寺院。
正式には阿弥陀山 安養院 光照寺(福島県郡山市田村町細田字宿65)






最終更新日  2019/03/09 04:38:41 PM
コメント(0) | コメントを書く
2018/07/14
カテゴリ:郷土の歴史



「郡山の池と川の歴史地理」を学ぶ
        元福島大学特任教授 高橋康彦先生

郡山市内を流れる阿武隈川のかつての姿はアマゾン川のように蛇行した流れだった。
地図右側の黒い流れが河川改修された現在のもの、水色に塗った部分が過去に流れた部分です。我が家のすぐ近く50m位近くまでかつて流れていたことを知った。
阿武隈川の名前の隈は歌舞伎の化粧、隈どりのように曲がりくねっていることに由来しているのだとか。
(写真は先生に許可をいただき撮影する)

今回の西日本豪雨の件もありますので過去の地形を頭に入れて、どこに逃げればいいかをチェックしておく必要があります。

岡山県真備町の洪水で被災された方が「全国どこでも今後、起こり得るかも」と云っていた。






最終更新日  2018/07/16 01:03:41 AM
コメント(0) | コメントを書く
2018/04/28
カテゴリ:郷土の歴史
法事で龍泉院(群馬県大泉町)に!東門がこの町で現存する一番古い木造建築物であるとweb検索で知り対面を楽しみに出かけました。開山は天文3年(1534年)本堂は2度火災に遭ってますが東門は約400年前の骨組みが今に歴史を伝える。母親の叔母がこの寺に嫁いでいるので親戚筋にあたります。

















最終更新日  2018/05/02 10:15:39 AM
コメント(0) | コメントを書く
2018/03/28
カテゴリ:郷土の歴史

静御前堂例大祭 奉納吟詠 に招集があり初参加する。
郡山の静御前伝説を今に伝える
静御前堂例大祭です。
静御前の命日の3月28日にあわせて郡山市静町の静御前堂にて行われます。

大人の奉納吟詠に比べ、子供(小学3年生)は昔語り。
昔語りはリレー語りで静御前のことがよくわかります。
はたして吟詠はどこまで伝わるのか考えてしまいました。

静御前は22歳の若さでこの世を去った人だったことを知る
郡山に伝わる「静御前伝説」は、平安時代、源義経の恋人であった静は義経を追って奥州平泉に向かう途中、郡山にて義経の死を知り落胆し、22歳の若さで美女池に身を投じたという悲恋の伝え。例大祭は里人がそれを哀れみ御堂を建て、霊を祀ったとの伝説に由来するものです。

静御前堂は1784年(234年前)に再建されたもので、釘を1本も使われていない建築物です。
​​​

イベントの最後は紅白丸餅の餅播きでした。運よく挙げた手のひらめがけて飛び込んできました。1ヶだけですがおみやげになりました。(^_-)-☆​​​​
















​​​​​
境内の桜の蕾も膨らみ始めました。
気温も20℃を超え半袖の子供も見られました。
例年は肌寒い気候が多いという。
会場では甘酒が無料で振る舞われていました。






最終更新日  2018/03/31 12:21:00 AM
コメント(0) | コメントを書く
2017/09/27
カテゴリ:郷土の歴史
安積国造神社に安積発祥の石碑が建っていました。
5世紀から6世紀にかけて大和朝廷が阿尺国造をこの地を統治するのに任命したそうです。この「阿尺」が「安積」の地名の由来とされているようです。

この石碑は柱状列石の六角柱の自然石を使っています。どこから採石してきたのだろうか気になった。













最終更新日  2017/10/01 01:53:08 PM
コメント(0) | コメントを書く

全70件 (70件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 7 >


Copyright (c) 1997-2019 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.