レトロな欄干越しに、堀川の流れを眺める朝
前回の名古屋駅(メーエキ)東側の朝の散歩では まだ紹介をしていなかった「堀川(ほりかわ)」は 名古屋市の守山区で、庄内川から取水をする形で 名古屋市の中心を流れて、伊勢湾(名古屋港)に 注いでいる その流域で通称が異なっており、最初の庄内用水 元杁樋門からを「庄内用水」と呼び、黒川樋門から 「黒川」となって、朝日橋(堀留)から河口までが 「堀川」であるそうで、この日記で紹介をするのは 堀川のあたりになる 徳川家康が、九男の尾張初代藩主の徳川義直の為に 天下普請により西国の外様大名の助役で、名古屋城を 築城した際、福島正則が資材運搬を目的とする水路と して、掘削したものだ 「納屋橋(なやばし)」の欄干には、十字の真ん中に 四角い穴の「中抜き十文字」と呼ばれる福島正則の 紋が施されている それにしても福島正則って、波乱万丈すぎる生き様だ 秀吉の従兄弟であったが為に、戦いに明け暮れて戦さ 上手で軍功を重ね、関が原で東軍で一番の働きであると 五十万石もの大大名になりながらも、江戸幕府に難癖を つけられて北信州の小藩に減封をされて、死してすらも 幕府の検死が来る前に火葬をされた為、息子は三千石の 旗本なんだもん・・・あぁ、世の儚さを感じる かなり逸れました(笑) その後も物資の輸送に使われて いた堀川も戦後は、庄内川以外は源流らしいものが無く 工業、生活排水の流入で悪臭を放つ河に成り果てたのを 近年になって名古屋市や地域住民らが、美しい川を取り 戻そうと様々な活動を行っている 堀川権左衛門ことホリゴンは、ケガをして熱田の 浜辺に流れ着いたところを、福島正則に助けられて その家来として堀川をつくる手伝いをして、のちも 堀川を守ってきたマスコット恐竜だそうで、今は 「堀川を清流に!」とPR活動を行っているそうだ どんなマスコット恐竜だろう? ゆるキャラ? レトロな納屋橋は、大正10年に近代的な鉄の橋が 完成し、昭和56年の道路拡幅によって現在の橋に 架け替えられたのだが、二代目の欄干等をそのまま 利用をしており、名古屋市の都市景観重要建築物に 指定をされている 橋のたもとのレトロなビルは、昭和6年に輸入貿易を 営んでいた加藤商会が鉄筋コンクリート造りの社屋を 建てたもので、社長である加藤勝太郎がシャム国(現・ タイ王国)の名誉領事に任命をされた為、昭和20年 までは領事館が置かれていたという 戦後にはミツカンの中埜産業へ売却され、平成12年 名古屋市に建物が寄付をされ、国の登録有形文化財に 登録をされたもので、現在はタイ料理店が営業をして いるそうだ 桜橋は綺麗な装飾がされているので、まじまじと眺めた 堀川に沿うようにして、西側にあるのが四間道(しけみち) である。徳川家康は名古屋城を築城し、清須(現・清州)から 名古屋への遷府をし、神社や仏閣、城下町が造成されると それまでの清須の地名までもを移す「清須越し」を行った 清須越しによって、堀川に面して商家がたちならび 川を利用して米や塩、味噌などが、ここから城下に 供給をされていたそうで、たいそう賑わっていた ところが元禄13年に大火があり、1649軒の町屋と 15の寺社が焼失して、この一帯も焼け野原になって しまった事から、尾張藩は道を四間(約7メートル)に 拡張をして、そしてその道の東側全てを全部土蔵造りと したそうで、そこから四間道と呼ばれるようになった 運よくこのあたりは戦火を逃れ、城下町の風情を 今も垣間見ることが出来、名古屋市の町並み保存 地区指定をされている 五条橋は、清須城の横にあった橋の名前であるそうで 清須越しによって、清須の橋からも一部橋材も移築を したそうである。昭和13年に今のコンクリートの橋に 架け替えられ、木製の橋にあった擬宝珠は名古屋城に 保管されており、尾張名古屋の城下を代表する橋だった 平成21年5月27日に名古屋市内で撮影