美濃国から信濃国へ、すぐに尾張藩で筑摩県、長野県で今は岐阜県
葡萄に、林檎、梨、プルーン、桃、ブルーベリー などなど果物王国の信州だけに、直売所には 都会などの販売価格の半額以下で売られており よく利用はしているけど、果物狩りともなると 他県でイチゴくらいなものだ さて、どこの果樹園に行こうかと考えていたら、これだ! 9月23日に信州大学農学部附属アルプス圏フィールド 科学教育研究センターの附属農場で、何やらイベントが あるというではないか その人気のぶどう狩りは入場料無料で、食べ放題! 持ち帰りの葡萄にしても1キロ400円の格安価格で 10キロ以上お持ち帰りのツワモノも多く、朝から 沢山の近隣住民が押しかけていた きゃ~、葡萄だ! ぱくっ! ぱくっ! 部屋に残る 娘にも1キロ(4房程)を土産にした 動物などのふれあいコーナーもあり、子供たちなどが 興味深そうに取り巻いていた ここの農場で栽培をされた山葡萄は、前回に紹介をした 林農園(五一わいん)に、製造委託をされてワインとなり 大学ブランド商品となっている。他にはジャムなども 蜂蜜の試食などもさせていただいた 姉妹は熊に興味津々のようだ 余談であるが、前に紹介をしたアニメの宮崎駿監督の 息子さん(ゲド戦記の監督)は、ここの森林科を卒業 されたという さらに、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは 名古屋出身で、中日ドラゴンズのファンであるそうで 宮崎駿監督が、落合監督と竜をモデルにした球団の ファンクラブのキャラクター「ガブリ」をデザインを したそうだ ここからは馬籠周辺の夕焼け風景。平成大合併で馬籠は 長野県から岐阜県になったので、木曽路といえども一応は 岐阜県の写真になる 元N県知事も、テレビで意気揚々とコメントされていたのが 注目のダム中止。信長いわく人間五十年(人の寿命はせいぜい 50年)をダム建設で賛成だ、反対だと揉めに揉め、やっとと いうところで、最後の最後になっての大どんでん返しの中止 表明は、平成の馬籠の越県合併のてんやわんやを思い出す 昭和33(1958)年、長野県の「神坂村」は県境を越えて 岐阜県中津川市への合併で、大部分が中津川市に編入 されながらも、長野県の横槍が入って島崎藤村の生まれた 馬籠地区のみが、長野県に残され山口村と合併させられ 以来40年以上 きっついですよ~。うちは賛成、隣は反対。学校も違えば 本来ならば友達になった同じ年の子ともは、目をそらせ 口も利かないくらい。農協とかの出入り業者も違うし 婦人会も違う。嫁に来たときには、スゴイところに来た もんだと・・・・それが住民投票による多数決でやっと まとまっての岐阜県への合併が決まったと思ったら 馬籠出身の島崎藤村は長野県人のアイデンティティだとか 当時のN県知事が言い出して、地元民がどんな嫌な思いで 日々を暮らしているかもまったく知らないような、軽井沢に お住まいの著名な文化人の皆さんが名を連ねての、越県 合併反対の長野県の新聞広告を、ネットで見た(中日新聞 岐阜版だから読めない)時の悔しさは、今も忘れられない ブログを見てもわかるように、信州の自然も文化もグルメも 好きな私だが軽井沢は登場しない。東京の飛び地であるように 思えるし、セレブな住民に対して、この時のトラウマもあるの かもしれない(ちなみに白馬は遠く、上高地は交通費が高い ので、なかなか行けなくて紹介が出来ないだけで好きだ) だいたいが木曽は、古代に美濃国と信濃国で領有が争われ 貞観年中(859~876年)に、朝廷が国境を鳥居峠として 室町中頃までは、美濃国木曾荘という記述もあったぐらいで 戦国時代に武田信玄が領有した事で、信濃国の筑摩郡に 編入をされたそうである 徳川幕府時代には、木曽は尾張藩の領地だったし、明治に なっても、松本を県庁にして、松本、伊那、飯田、高島、高遠 尾張藩領であった木曽地域、高山などの飛騨国との合併で 筑摩(ちくま)県が誕生したが、明治9(1876)年に松本の 筑摩県庁が焼失したのを、きっかけに筑摩県は分割をされ 飛騨国は岐阜県に、残りは長野県に合併されて消滅をした そんな訳で、何が長野県だと思う元筑摩県民もいただろうし 馬籠は尾張藩の領民であるという誇りを、「水戸黄門」でも 扱ってたし、うちの舅でも、昔、尾張藩主がうちに休憩で たち寄ったそうだと自慢しているくいらいだ 国立大学だって長野ではなくて、信州大学で本部も松本だしね 島崎藤村は明治5(1872)年の馬籠生まれだから、じゃ 筑摩県出身という事になる。前にブログでも筑摩書房の 創立者が小野宿出身だと紹介したが、「筑摩」という名は 特別なものかもしれない そう思うと松本が舞台だったドラマ「白線流し」で、飛騨から 移り住んだ老人から聞いた白線流しや、ドラマ後半で飛騨に 移り住んだ渉(長瀬)や、NHKの朝ドラでさくらが松本から バスで高山に入ったり、あぁ野麦峠・・・・女工哀史にしても なんでアルプス越えて飛騨から出稼ぎ?と、思った謎も解ける 飛騨と松本は、筑摩を通じ思いのほか近い存在であったかも ダムは貴重な国民の税金を使う大事業であるだけに、慎重に 調査、議論をした上で判断し、住民のケアもお願いしたい 党のマニフェストにあるから、国民の支持を得たなどと いうような乱暴な結論付けはどうかと思う。というか首長や 大臣などのトップの個人的な主張だけで、事業の根幹を 変えてしまうような大転換って、どんなもんだろう 伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ とも言われていたが、1945年5月14日の名古屋大空襲で 本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが 焼夷弾の直撃を受けて、大火災を起こし焼失してしまった 関ヶ原の合戦で天下を制覇した徳川家康は、1610年に 清洲から名古屋への遷都に着手して、来年で四百年になる 開府四百年を記念して、伝統的な建築手法にのっとった 名古屋城本丸御殿が復元される事になり、元尾張藩の縁から 市からの発注で、木曽の上松や、裏木曽の上矢作などから 伊勢神宮の遷宮にも使われるような、最高級の木曽ヒノキが たくさん切り出され、工事も本格化していた ところが「住民税の10%減税」を公約にする河村たかし 名古屋市長が就任をして、大きな公共工事は見直したいと 名古屋城本丸御殿復元も、事業の凍結を姿勢を示したのだ 市長は賛成派、反対派を招いての市民討論会を開いて 事業継続を求める声が多数を占めた事から、一転して 「千年先を考え、未来の子どもたちに自慢できるものを 残す」と、継続が決まったとか それどころか、戦後にコンクリートで復元をされている 名古屋城天守閣を、木造によって忠実に建て直したいと 表明しているそうで・・・独りよがりに成らずに、広く様々な 人の意見に耳を傾けようとする柔軟性こそが、このような 変化の早い混沌とした時代には必要なのかもしれない ちなみに田中美絵子&佐藤夕子両議員は、河村たかし 市長の国会議員時代の元秘書だそうで、河村シスターズと いわれていたとか ( ↑ 上3枚の写真は以前のものです ) テレビ旅番組のラストシーンにも使われる馬籠の新茶屋は 信州のサンセットポイント百選だったそうだけど、岐阜県に なったしどうなったんだろう。時代の為政者の都合でよって くっついたり離されたりと、国の境は変わろうと馬籠の人は 常に、美濃国に沈む夕日を見下ろしていた 俳人の正岡子規が、木曽路を訪ねた事を「かけはしの記」に 書いており、ここを訪れての言葉は・・・ 今ここに至りては世界を別にするの感あり。 平成21年9月下旬に、元・筑摩県で撮影