新年を寿ぐ。黄金に輝くピッカピカッの名古屋城本丸御殿
新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいや重け吉事 天平宝字3(759)年、因幡国の庁の新年の宴で大伴家持の歌で、彼が編纂をした万葉集の最後を飾っているものだ鵲(かささぎ)の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにけるこちらは百人一首での家持の歌で、さぞや風雅な生活をおくっていたかと思われるが実は宮中での権力争いに翻弄されて、地方に飛ばされたり波乱万丈な人生であったようだ人は誰しも順風満帆とはいかず、ドラマ水戸黄門のオープニングの歌にあるように人生楽ありゃ苦もあるさぁ~♪という訳でブログではいい事ばかり書いてるようでもそりゃ色々ありますが、まっ成るように成るさと開き直るお正月昨年は、春の中津川場所で相撲の巡業を見に出かけ、夏には名古屋場所を観戦をしに行ったんですが、少し早めに出かけ100円安くなった入場料で、名古屋城を姉と見に出かけましたここ最近は名古屋城の話題はこちらで賑わってます。というのも太平洋戦争の空襲で焼けてしまって、コンクリートで天守閣を作ったんですが、それも古くなってきたんで本格的に、木材で作ろうって話が出てきましてその計画されている本格的な天守閣にエレベーターを付けるかどうかなんていうのももめていたら、今度は石垣が調査が進まずに、完成が遅れるそうだ名古屋城天守閣の石垣は、加藤清正が築き1612年の築城当時のものが残されており大変に貴重なものなので、その調査や保存も慎重に行わねばならないそうだこの大きな石は清正石といい、加藤清正が自ら運搬の指揮を執ったというが、この石垣の施工大名は黒田長政であったんだとか。徳川家康から命じられ20名の助役大名らによって、名古屋城の石垣の工事が進められたそうだ土台となる石垣に使われた石の総数は、10万個から20万個とも言われており、それらの石は、石崎山篠島、幡豆(はず)をはじめとして、紀伊や讃岐地方から集められ、まさに天下普請の名城である尾張名古屋は城で持つとも言われる、名古屋城も金シャチだけでなく石垣もすごい!という訳で色々とありますが、天守閣の工事も入っており見慣れた、このコンクリートの城ともお別れだ城に向かう途中、何やら記念碑がたっていた↑ふむふむ。御三家である尾張家ですら混とんとした幕末ともなると、このような粛清が行われていたのか。ぶるぶるぶる~さてさて姉と大相撲名古屋場所だけを観覧しに名古屋に行くのも勿体ないし、会場の横にあるのは、天守閣も見納めの名古屋城その本丸御殿が完成したというので、これは見に行かねば!と出かけた次第だ三期にわかれ10年にも及んだ本丸御殿の復元計画であったが、昨年6月8日に遂に完成。新たに公開をされる湯殿書院と黒木書院は廊下も狭いというので整理券を配布しての時間制限によるものだったちょうど良い時間に整理券を受け取れて数分程で、内部を見る事になりラッキーちょっと前に作られた手前の建物に比べ奥の真新しい部分は、やっぱピッカピカ木曽ヒノキをふんだんに使って、当時の書面などを参考に本格的に復元をされた真新しい本丸御殿の奥には、お役御免となった天守閣。数年後にはどんな姿を見せてくれるのだろう本丸御殿の他の殿舎が総檜造りであるのに対して、松材が使われていたので黒木書院と呼ばれ、清州城内にあった家康の宿舎を移築したものと伝わる襖絵も色味を落とした水墨画が描かれており山水図、四季耕作図、梅花雉子小禽図というモチーフだそうだこれでもかと葵の御紋の入った煌びやかな装飾小さな細工一つでも、丁寧な仕事をされているもんだなぁ~将軍専用の湯殿と、上段之間、一之間、二之間からなるお風呂場で、上洛殿とともに寛永期に増築をされたそうだお風呂と言っても、今のように湯船ではなくって外にある釜で湯を沸かし、その湯気を内部に引き込んだサウナ式の蒸風呂である寛永11(1634)年に、三代将軍の徳川家光の上洛に備えて、上洛殿や湯殿などが新らたに作られたそうだが実際に藩主は二の丸御殿に、元和6(1970)年から住んでおり、本丸御殿は徳川将軍が京都へ上洛する際に利用をしただけで、実際に利用をしたのも二代秀忠、三代家光、十四代家茂だけであった徳川将軍の御成御殿であったので、その格式は二条城本丸御殿に匹敵した作りであり、たとえ尾張藩主でも、巡覧時のみに立ち入る事が出来尾張藩士も警備と手入れのみを行っていた流石に天下の名城だけに、金シャチ、石垣以外も見るべきものがあったのかそのような他に類のないような本丸御殿復元にあたっては、かなりの工夫と努力なども要された事だろう廊下ですら、この細工の美しさ。やっぱ木造家屋、建具は繊細で美しい。天守も楽しみだ天守ともども名古屋大空襲で焼失をしてしまった本丸御殿であるが、それを飾る煌びやかな襖絵や天井板絵などで、取り外せるものは、他所に移され無事であったそれらは、今も大切に保管をされておりそのうちの1,047面が国の重要文化財の指定を受けているそうだ。とは言っても保存上の問題もあるので、この復興した御殿を飾るものは、どれも新たに作られたものばかりで狩野派の絵師らが全精力を注いで描いた障壁画を、忠実に現代に蘇させる為にと顕微鏡やコンピュータ分析がされ、その当時の絵師が使っていた素材や技法を用い再現をされている江戸からやってきた将軍一行が見つめた景色を一般庶民のわれわれが眺める事が出来るのはいかに贅沢な事だろうか江戸期には広間と呼ばれ、武家の儀礼上で最も主要な正式の対面に用いられたのが表書院でその権力を、下位の者に知らしめる表向きの謁見に用いられていた画題は花鳥や走獣画で、技法としては金地濃彩画となっている藩主が身内などの親しい者たちと対面したり宴席を開いていた対面所は、穏やかな筆致で庶民の暮らしが描かれた「風俗図」となっている紹介が遅れたが一番最初のキンキラ金の虎だか豹の絵は、通称を虎の間とも呼ばれ本丸御殿の正式な玄関で、ここに通されて藩主の謁見を待つ者は、異国の霊獣であった虎の群れに圧倒されるという趣向です描かれた当時は本物の虎や豹を見る事は出来ず書物や毛皮などを参考に描かれたそうだ。更に豹は雌の虎と思われていたらしい廊下もまたキンピカと眩い「鷺之廊下(さぎのろうか)」は、対面所と上洛殿を結ぶ廊下で名の通り鷺が描かれている今の技術であれば金箔ももっと美しく貼れるのを、制作された江戸期の技術にのっとって、四角い継ぎ目が再現されているそうだそれにしても、このような江戸の技術を再現出来た事は、現代を生きる伝統技術後継者にも良い経験であった事だろう幾ら頭でわかっていても、実際にそれを制作してみないと腕も磨けない。名古屋城天守も伝統技術継承の為にも、本格的に木造で、当時の技術を現代に再現をして欲しいし大変に申し訳ないがエレベーターは設置の必要はないようにも思える。海外からのお客様や、将来の子供たちの為に残すといった意味でも、忠実に作ってほしいのだ観光面では痛手かもしれないが、しかし現存する姫路城や二条城よりも素晴らしいとも言われていた天下の名古屋城だからこそ、格式を持つ本格的な城であって欲しいより一層、煌びやかな天井画も描かれているのが、将軍家光が上洛する時の為に新築をされた上洛殿だこの細工の素晴らしさに羽目を見張るばかりだ本丸御殿の中でも最も豪奢な上洛殿の障壁画は、将軍御座所として格の高さを重んじ、狩野派の最高技法の水墨画が選択されたその筆者は、当時三十三歳の狩野探幽で当時、大人気の最高の絵師であった。その中でも一の間には中国明代に編述された中国皇帝の政治を絵画化し、江戸幕府将軍や大名の行動規範となる「帝艦図」が描かれている京都の二条城を彷彿させる、この彫刻欄間は最大で幅324センチ、高さ140センチ、厚さ27センチ。富山県南砺市の井波彫刻で透かし彫りの手法で作られ、京都の職人により金や極彩色で彩られた更に南砺市五箇山産コウゾを素材とした和紙「悠久紙」が、襖の下貼りなどに活用をされているんだとか。金シャチの乗った天守閣は当分見れないかもしれないがこの素晴らしい本丸御殿は、是非、その目で見ていただきたい。名古屋城の別名は金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)もしくは 金城と言う正月のめでたいブログ日記のテーマと致しました 平成30年7月21時日に名古屋城で撮影 1年間お付き合いありがとうございました 今年もまたよろしくお願いしますにほんブログ村だただ