私のお家は広いのよ。柳川の水郷でどんこ舟と金襴緞子の雛飾り
2月上旬に、娘と出かけた長崎旅行も最終日。九十九島を遊覧をして佐世保から佐賀県に入って、有田で昼を食べ次は福岡県の柳川(やながわ)ですここでは希望者は、有料でどんこ舟にあとの人は1時間程のフリータイムです柳川は前に一度、来た事がありますが今回はちょうど雛飾りの時期だったのでどんこ舟には乗らず、前回も見学をしたお屋敷を拝見しようと思いました柳川(柳河)藩主であった立花家の広大な御殿とお庭を有料で見学が出来るのだ。元文3(1738)年、第5代藩主立花貞俶が柳川城の南西隅にあたる御花畠(ここ)に別邸を築いたそうである明治となり立花家は伯爵となっていたが立花家の第14代当主立花寛治によってゴージャスな迎賓的な邸宅が明治43年に完成し、今も当時の姿を残し地元の人から御花(おはな)と呼ばれて親しまれている立花家についてウィキペディアで説明すると>南北朝時代に、大友貞宗の子の大友貞載>が筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称した>ことより始まる>以来大友氏の重臣として重きをなしたが、>立花鑑載のとき大友義鎮(宗麟)に背いた>ため、同じく大友氏支流の戸次鑑連(立花>道雪)により攻め滅ぼされ、鑑載の子・>立花親善の代で断絶した。>大友義鎮は大友氏の一族、戸次鑑連を立花>鑑載・親善にかわって立花城に入れ、立花氏の>名跡を継がせた(鑑連はのちに入道して道雪と>号す)。鑑連自身は主家である大友家から>立花姓の使用を禁じられたため、立花姓を>名乗ってはいないが、立花道雪の名で知られる>道雪は男子がなかったため、初め娘の誾千代>(ぎんちよ)に立花城を譲り、晩年に道雪と>同じく大友氏の庶流であった高橋紹運の息子、>統虎を誾千代の婿に迎えて養子とした。統虎>改め立花宗茂は斜陽の大友氏を支え島津氏>との戦いに活躍し、豊臣秀吉の九州征伐の後、>筑後国柳川に13万2000石を与えられた。>立花宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に参加したため>(大津城攻めのため本戦には参加できなかった)>所領を没収され流浪したが、1604年に徳川氏に>より取り立てられ、1606年、陸奥国棚倉で>1万石を与えられて大名に返り咲いた。>その後、大坂の陣でも戦功をあげ、1620年、>関ヶ原の戦い以降に筑後柳川32万石を支配>していた田中氏が絶家したのをきっかけに>柳川10万9千石を与えられ、旧領に戻った。>関ヶ原で改易された武将が再び「大名」と>して復活できた例は少なく、その中でも旧領に>戻ることができたのは立花宗茂ただ一人である。>江戸時代の立花氏は柳川藩主として明治維新>まで続き、維新後は華族に列して伯爵を授け>られた。現在の立花家は、柳川市の自邸立花氏>庭園(松濤園)を改装した料亭・旅館・宴会場>「御花」を経営している。との事でして。戦国期の女性は時代に翻弄をされたお市の方や三姉妹、細川ガラシャなど人気がありますが、岩村の女城主のおつやや大河の井伊直虎のように、立花家のお姫様の誾千代もまた女城主であった>大友氏の有力家臣(加判衆)であった戸次鑑連>(立花道雪)の一人娘として筑後国山本郡(現・>福岡県久留米市草野)の問本城にて誕生。名前に>含まれる「誾」の字は“慎み人の話を聞く”という>意味合いを含めて肥前の僧侶、増吟が名付けた。>天正3年5月28日(1575年7月6日)、誾千代が>7歳の時に立花城の城督・城領・諸道具の一切を>譲られている。道雪は後継者となるべき息子が>おらず、一人娘に城督を継がせるため、通常の>男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家で>ある大友家の許しを得た上で、姫を立花城の>城督とした。大友家の重臣の子であった宗茂が、誾千代と結婚し立花道雪の婿養子となって、誾千代に代わって家督を譲られたのだが>宗茂が不在の間、城の守りは妻である誾千代が>任せられていた。そのため侍女たちとともに>武装し、敵からの攻撃に備えていた>『大友文書』によると、「戸次伯耆守は>大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚が>くさり衰えたり。されど娘ありて勇壮。>城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、>戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を>奪う」という記述がある。>宗茂が文禄・慶長の役で不在の間、秀吉は>誾千代を言葉巧みに名護屋城に呼び寄せ>手込めにしようとしたが、それを察知した>誾千代はお付きの女中に鉄砲を構えさせて>護衛させ、また自らも武装をして乗り込んだ>為、それに恐れをなした秀吉は手も足も>出なかったとされる。>関ヶ原の戦いの時には、居館から甲冑を着て>出撃、先に柳川西側の渡船口にて鉄砲隊を構え>射撃して鍋島水軍を近づけず、そして南側へ>往き、自分が別居中の宮永村にて攻め寄せる>加藤清正軍を威嚇して、加藤軍の進軍を改道>させたとされている。なかなかの女城主ぶりだ。しかし夫婦仲が良くなかったようで、彼女は後年は、別宅に住んで子供もいなかった。宗茂の実弟の子を養子とし後世に繋いだようであるこちらは立花伯爵家のお嬢様。この邸宅が完成した同じ年に誕生された立花文子嬢は林野局にお勤めのお婿さんと全国をまわり終戦後には柳川に一家で戻り、お婿さんが立花家16代当主となったのだが華族制度は廃止され、膨大な財産税を払う為に、東京の不動産を処分しても借金が残ってしまったそうだ。そこでこの柳川の大きな屋敷で、料理旅館を始めたそうですよ昭和25年に料理旅館「御花」を開業し伯爵家のお嬢様だった女将の文子さんの口癖は「なんとかなるわよ」との事で今でも「御花」は料理旅館をしながらお屋敷も有料で公開をしており春先には、艶やかな雛飾りが座敷に飾られている。こういったものもその時期に行かなければ。柳川のさげもんも見たかったしね。ウィキペディアによると>さげもんは、福岡県柳川市に伝わる風習。>吊るし飾りのひとつ。女児の生まれた家庭>では、その一生の幸せを願い雛壇は父方の>実家から、さげもんは母方の親戚、母、>祖母が用意する。>元々は奥女中の嗜み教養のひとつとして、>お姫様が生まれると琴爪入れなどに使う>袋物を姫様の健やかな成長を願い繕い>贈ったのがはじまり。やがて吊るし雛へと>型を変え柳川まりとともに伝承されて>きた風習である。>また彼女らの里帰りを通して庶民にも伝え>られた。裕福な家庭は雛壇をさらに豪華に>ひきたてる為、部屋中にさげもんを飾りつけ>客人を招いた。あるいは雛壇を用意できぬ>家庭でもその代わりとして布団ハギレで縫い>合わせ心をこめた初節句の祝いとした。>人生50年と言われた時代に女性は一歩引いて>49年と配慮した意味を含ませ、さらに中央に>特大柳川まり2連を加え計51個とする事により、>人生50年よりも長生きできるように願をかける。>これを初節句の際、雛壇の横に左右対で飾る。>これに類する風習として静岡県東伊豆町の>「雛のつるし飾り」、山形県酒田市の>「傘福」(笠福)がある。との事で、艶やかな雛飾りをじっくりと楽しむ事が出来た。立花宗茂と誾千代夫妻地元では大河ドラマ化も狙っているらしい誾千代以上に立花宗茂も人気があるようだ何でも秀吉と家康を魅了した、戦国最強の武者が浪人になり、再びの返り咲きウィキペディアで彼の事を紹介すると >(九州平定)戦後、秀吉はその功を認めて筑後国>柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣>大名に取り立てた。このとき秀吉は宗茂を「その>忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」「九州の>逸物(原文:誠九州之一物ニ侯)」と高く評価した>文禄の役でも立花軍が明軍を食い止めたために>戦機が生まれ、小早川隆景などの日本軍が明軍を>撃破した。宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、>二つの首を鞍の双方に付け、刀は歪んで鞘に戻せ>なくなったという。>『甫庵太閤記』に「鬼神も敵す可らざる御功績も>あり」と記述があるので、柳川の民からも「鬼将軍」の>異名で呼ばれた。小早川隆景は「立花家の3,000は>他家の1万に匹敵する」と評価し、秀吉からも「日本>無双の勇将たるべし」との感状を拝領した>小田原征伐に従軍、岩槻や江戸に参陣。>2月1日、秀吉は諸大名の前で宗茂を、>「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西>無双」と評し、その武将としての器量を>高く褒め称えた>徳川家康は宗茂を畏敬し賞賛していた。二条城に>上洛した際、本多正信に、直々に絶賛した記録が>残っている。武田信玄、上杉謙信、織田信長等の>名だたる武将と比肩して。正信は、殿がそのように>褒めるお方は誰にと問えば「家康公の仰に、天下に>隠れなき立花宗茂が事よと宣ふ。」(翁物語)>『名将言行録』では、宗茂のことを「人と>なり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて>誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。>流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、>民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、>義を以てす。>故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、>奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば>必ず勝てり」と記している。文武両道の名将で、>連歌・書道・茶道・香道・蹴鞠・狂言・能楽・>笛・舞曲・料理・竹製花器・手作り仏像・弓製作>など多彩の技芸にも長けていた文化人とされるいやぁ~。なんだかすごい。そんな人物だからこそ、戦国を生き抜き江戸時代も将軍家からも重宝されたのだろう。もし大河をするとしても誰が演じるのだろう。誾千代とかは思いつくんだけどといった訳で、立花家のお屋敷と展示館を見学させていただき、残る時間は柳川のプチ街歩きを楽しもうかな。柳川は掘割という水路がめぐらされた水郷です。それを船頭さんに操られたどんこ舟に揺られのんびりと。2月上旬はもうマスクをつけている人もいますね。式場から披露宴会場へ移動する花嫁舟などもあるそうですよなんだか倉敷とか佐原なども思わせる光景ですが、やっぱ水郷は風情がありますね。この柳川出身の有名人は結構あるようです。妻夫木聡、徳永英明、北山たけしといった芸能人の他にも大相撲の琴奨菊、横綱土俵入りの不知火型を考えた、第十代横綱の雲龍久吉。なんでも途中で名前が変わったみたいです。小説家では檀一雄そして北原白秋もここ柳川の商家の生まれです。ウィキペディアによれば>北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年>(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)>11月2日は、日本の詩人、童謡作家、歌人。>本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。>詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」>「ちゃっきり節」等)の分野でも傑作を残して>いる。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い>継がれる童謡を数多く発表し、活躍した時代は>「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並んで評さ>れる、近代の日本を代表する詩人である。どんな童謡の作詞かなと、並べれてみると雨、あめふり、ゆりかごのうた、この道からたちの花、ペチカ、ちゃっきり節待ちぼうけ、砂山などなど・・・あめふりは、ピッチピッチ チャップチャップランランランで。雨は、雨がふります雨がふるって感じです。あめふりは「コドモノクニ」という児童雑誌で発表されたそうだが、他にも野口雨情のうさぎのダンスも、この雑誌から挿絵画家には竹久夢二や東山魁夷などの名前もあって児童雑誌とはいえ侮れない復刻版とかあれば見てみたいなぁ。集合時間が決まっていたので、そろそろバスに戻らねばもう少し時間があれば良かったけど、まだこの後にも観光があるんですよ。どれだけ充実してるんだ3日目。個人だったら既に駅に向かって、名古屋行きの新幹線に乗る時間かも船頭さんによっては話が上手いとか歌が上手いとか、いろいろあるけど今回の人はイマイチだったとバスで添乗員さんが言っていた。フリーで良かったかな♪御花の売店で、八女抹茶もなかを娘と半分こ。福岡県八女市あたりの八女茶の生産高は全国6位。手頃に名物を食べるのも旅の楽しみだバスでどんこ舟組を待っていたら、一般車両の利用者さんが肩ににゃんこを乗せ車に戻ってきていた。紐をつけての観光みたいだが、猫連れは珍しい土岐アウトレットもわんこ連れが多いが一度、フクロウを連れた人がいたのには驚いた。ではでは一番最後の観光地へと出発しますか! つ づ く 2020年2月10日に福岡県柳川市で撮影にほんブログ村