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殿上人日記

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2009年01月28日
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カテゴリ:長野、山梨の旅

      小野宿14

  昨春に、娘が松本から伊那に引越をするにあたって
  その準備もあり、何度か塩尻市と辰野町を通過する
  事があったのだが、この道のすぐ脇の田畑に野生の
  日本カモシカ(メス)を、至近距離で目撃をした時は
  驚いた

  間に小川があるとはいっても、びゅんびゅんと通過する
  車にも驚きもせず、平然とたたずんでいたが、急の事で
  デジカメの準備も間に合わず、撮影できなかった


 小野宿9

  国道だけに交通量も結構ある道なので、車の排気ガスに
  まみれながらも、まるで江戸時代にタイムスリップをした
  ような小さな町並があり、その重厚な佇まいを車窓から
  眺めるうち、いつかゆっくり歩いてみようと思っていた

  そんな「小野宿」に、昨秋、良い天気にもつられて
  娘のところから一人でぶらりと出かけてみた


      小野宿16

  信州、三河(三州)を結ぶ現在の国道153号線のルートは
  かつての「三州街道」であり、別名を伊那街道&飯田街道とも
  呼ばれていた

  更には「中馬街道」という呼び方もされるが、信州伊那谷の
  農民らが農閑期を利用して、飯田や松本の城下町の商人の
  荷物を、自分の馬や牛の背に積んで運搬をし、駄賃を貰って
  いたのを「賃馬」(ちんば)、「中継馬」(ちゅうけいば)といい
  後にそれが「中馬(ちゅうま)」といったからだそうだ


 小野の宿2

  商品流通が盛んになるにつれて仲間も増えて、飯田は
  1日に馬が千頭が入って、千頭が出るといわれたそうで
  中馬街道筋の678ヶ村には、馬数が1万8千頭にも及び
  三河の農民にも馬稼ぎをはじめるものが増えて、信州の
  中馬と争いが起きて、幕府が仲裁に入って、馬の頭数や
  参加をする村を制限する位であった

 
 小野宿8

  信州からは年貢米、タバコ、山の産物が運ばれ、三河からは
  大浜、碧南、一色でとれた塩が、矢作川の古鼠(豊田市)から
  矢作川支流の巴川の平古(豊田市)までを、川船で運ばれた後
  足助の塩問屋を通じてから、中馬で信州に運ばれていたので
  「足助塩」「足助直し」と呼ばれていたそうだ
 

      小野宿11

  長野県の県宝である「小野宿問屋(旧小野家住宅)」は
  戦国時代からの地侍の系譜をひき、小野宿の問屋や
  名主役を務めた小野家の住宅で、安政6年(1859年)の
  大火の後に建築をされた、梁行十間半桁行八間半という
  大規模な信州特有の本棟造りの民家だ

  期間限定の公開もされているので、次回は内部も見てみたい


 小野宿10

  また小野家には、宿駅、問屋に関する文書として伝馬割付状や
  人馬継立帳、中馬関係の資料などや、村方文書の検地帳、年貢
  関係史料などが残されているのだが、武田信玄朱印状もあるとか

  戦国といえば天正19年に東西は諏訪と木曽、南北は松本と
  伊那を結ぶ交通の要衝にあたる小野の地をめぐって、飯田の
  毛利秀頼と松本の石川数正との間に所領争いが起こり、秀吉の
  裁定によって真っ二つに分割をされて以来400年、宿場の
  ど真ん中で辰野町小野と、塩尻市北小野に分かれたままである


 小野宿7

  この地で生まれた小野光賢は横浜で貿易業を営み、勝海舟や
  山岡鉄舟、高橋泥舟らとも親交を重ね、横浜の草創期に尽力し
  町名主、横浜の副市長を務めたあげた立役者であるそうだ

  息子の小野光康は慶応2年、国内の混乱期に「男子時至れり」と
  横浜に出て父の仕事を継ぎ、横浜商法学校(現市立横浜商業
  高校)の創立、横浜商法会議所会頭、横浜正金銀行(現三菱
  東京UFJ銀行)頭取と、横浜の近代化に欠かせない人物だ


      小野宿13

  明治43年には勅任の貴族議員にも列せられ、郷里の小野村
  にも小野駅の開設、学校、図書館、病院の建設に私財を投じ
  貢献をした大人物だ。こうゆうのを「故郷に錦を飾る」というん
  だろうなぁ・・・

  それにしても立派な門ばかり!

 
 小野の宿1

  筑摩書房を創立し、日本の出版文化の発展に尽くした古田晁も
  この宿場の出身だ。精神的に追い詰められていた太宰治が
  古田を訪ねたのだが、古田は太宰を静養をさせるのに必要と
  なる食料を調達をする為に、実家の小野に戻っていたので
  会う事ができなかったそうだ

  その翌日に太宰は玉川上水で入水自殺をしてしまい、古田は
  「会えていたら、太宰さんは死ななかったかもしれん」と痛恨の
  言葉を発したそうだ

  ちなみに筑摩とは、松本付近から木曽にかけての信濃国に
  存在をした筑摩郡(つかまごおり、ちくまぐん)あたりから
  名づけられたのではないだろうか


 小野宿6

  まさに夜明け前。禁門の変や池田屋事件も起きた元治元年
  (1864年)に創業をしたのが「小野酒造店」で、小野宿の
  背後にある霧訪山(きりとうやま)の伏流水を使った、柔らかな
  口当たりとおだやかな甘み、そしてスッキリとした飲み口が
  この蔵の特徴だそうである

  島崎藤村の息子で、馬籠宿にある藤村記念館の初代館長の
  島崎楠雄に頂き、ラベルの文字も書いて貰った「夜明け前」と
  いう銘柄で有名だ


      小野宿15

  観光化された妻籠宿や、奈良井宿など中仙道の宿場町の
  町並みというよりは、重厚感のある武家屋敷の連なるような
  風情ではあるが、いかんせん真横を高速の車がびゅんと
  通過すると、とたんに現実に引き戻されます

  国道19号と微妙にずれた木曽路の宿場と違って、宿場の中を
  国道153号が貫いてしまっているから


      小野宿18

         平成20年10月3日に信州小野宿で撮影

      日記更新を先にされていただきましたが、前回の日記にも
      沢山のコメントをいただき有難うございました。皆さんの
      ブログには、お返事も兼ねさせていただき、本日中には
      伺わせていただく所存です







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最終更新日  2009年01月28日 12時27分34秒
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