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テーマ:★信州大好き★(744)
カテゴリ:長野、山梨の旅
![]() 昨春に、娘が松本から伊那に引越をするにあたって その準備もあり、何度か塩尻市と辰野町を通過する 事があったのだが、この道のすぐ脇の田畑に野生の 日本カモシカ(メス)を、至近距離で目撃をした時は 驚いた 間に小川があるとはいっても、びゅんびゅんと通過する 車にも驚きもせず、平然とたたずんでいたが、急の事で デジカメの準備も間に合わず、撮影できなかった ![]() 国道だけに交通量も結構ある道なので、車の排気ガスに まみれながらも、まるで江戸時代にタイムスリップをした ような小さな町並があり、その重厚な佇まいを車窓から 眺めるうち、いつかゆっくり歩いてみようと思っていた そんな「小野宿」に、昨秋、良い天気にもつられて 娘のところから一人でぶらりと出かけてみた ![]() 信州、三河(三州)を結ぶ現在の国道153号線のルートは かつての「三州街道」であり、別名を伊那街道&飯田街道とも 呼ばれていた 更には「中馬街道」という呼び方もされるが、信州伊那谷の 農民らが農閑期を利用して、飯田や松本の城下町の商人の 荷物を、自分の馬や牛の背に積んで運搬をし、駄賃を貰って いたのを「賃馬」(ちんば)、「中継馬」(ちゅうけいば)といい 後にそれが「中馬(ちゅうま)」といったからだそうだ ![]() 商品流通が盛んになるにつれて仲間も増えて、飯田は 1日に馬が千頭が入って、千頭が出るといわれたそうで 中馬街道筋の678ヶ村には、馬数が1万8千頭にも及び 三河の農民にも馬稼ぎをはじめるものが増えて、信州の 中馬と争いが起きて、幕府が仲裁に入って、馬の頭数や 参加をする村を制限する位であった ![]() 信州からは年貢米、タバコ、山の産物が運ばれ、三河からは 大浜、碧南、一色でとれた塩が、矢作川の古鼠(豊田市)から 矢作川支流の巴川の平古(豊田市)までを、川船で運ばれた後 足助の塩問屋を通じてから、中馬で信州に運ばれていたので 「足助塩」「足助直し」と呼ばれていたそうだ ![]() 長野県の県宝である「小野宿問屋(旧小野家住宅)」は 戦国時代からの地侍の系譜をひき、小野宿の問屋や 名主役を務めた小野家の住宅で、安政6年(1859年)の 大火の後に建築をされた、梁行十間半桁行八間半という 大規模な信州特有の本棟造りの民家だ 期間限定の公開もされているので、次回は内部も見てみたい ![]() また小野家には、宿駅、問屋に関する文書として伝馬割付状や 人馬継立帳、中馬関係の資料などや、村方文書の検地帳、年貢 関係史料などが残されているのだが、武田信玄朱印状もあるとか 戦国といえば天正19年に東西は諏訪と木曽、南北は松本と 伊那を結ぶ交通の要衝にあたる小野の地をめぐって、飯田の 毛利秀頼と松本の石川数正との間に所領争いが起こり、秀吉の 裁定によって真っ二つに分割をされて以来400年、宿場の ど真ん中で辰野町小野と、塩尻市北小野に分かれたままである ![]() この地で生まれた小野光賢は横浜で貿易業を営み、勝海舟や 山岡鉄舟、高橋泥舟らとも親交を重ね、横浜の草創期に尽力し 町名主、横浜の副市長を務めたあげた立役者であるそうだ 息子の小野光康は慶応2年、国内の混乱期に「男子時至れり」と 横浜に出て父の仕事を継ぎ、横浜商法学校(現市立横浜商業 高校)の創立、横浜商法会議所会頭、横浜正金銀行(現三菱 東京UFJ銀行)頭取と、横浜の近代化に欠かせない人物だ ![]() 明治43年には勅任の貴族議員にも列せられ、郷里の小野村 にも小野駅の開設、学校、図書館、病院の建設に私財を投じ 貢献をした大人物だ。こうゆうのを「故郷に錦を飾る」というん だろうなぁ・・・ それにしても立派な門ばかり! ![]() 筑摩書房を創立し、日本の出版文化の発展に尽くした古田晁も この宿場の出身だ。精神的に追い詰められていた太宰治が 古田を訪ねたのだが、古田は太宰を静養をさせるのに必要と なる食料を調達をする為に、実家の小野に戻っていたので 会う事ができなかったそうだ その翌日に太宰は玉川上水で入水自殺をしてしまい、古田は 「会えていたら、太宰さんは死ななかったかもしれん」と痛恨の 言葉を発したそうだ ちなみに筑摩とは、松本付近から木曽にかけての信濃国に 存在をした筑摩郡(つかまごおり、ちくまぐん)あたりから 名づけられたのではないだろうか ![]() まさに夜明け前。禁門の変や池田屋事件も起きた元治元年 (1864年)に創業をしたのが「小野酒造店」で、小野宿の 背後にある霧訪山(きりとうやま)の伏流水を使った、柔らかな 口当たりとおだやかな甘み、そしてスッキリとした飲み口が この蔵の特徴だそうである 島崎藤村の息子で、馬籠宿にある藤村記念館の初代館長の 島崎楠雄に頂き、ラベルの文字も書いて貰った「夜明け前」と いう銘柄で有名だ ![]() 観光化された妻籠宿や、奈良井宿など中仙道の宿場町の 町並みというよりは、重厚感のある武家屋敷の連なるような 風情ではあるが、いかんせん真横を高速の車がびゅんと 通過すると、とたんに現実に引き戻されます 国道19号と微妙にずれた木曽路の宿場と違って、宿場の中を 国道153号が貫いてしまっているから ![]() 平成20年10月3日に信州小野宿で撮影 日記更新を先にされていただきましたが、前回の日記にも 沢山のコメントをいただき有難うございました。皆さんの ブログには、お返事も兼ねさせていただき、本日中には 伺わせていただく所存です お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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