殿上人日記

2010/01/31(日)22:41

真田桜と黄金水。難波津から渡辺津、石山、大阪へと時代は巡る

大阪、兵庫、岡山の旅(20)

         前の日記にいただいたコメントで大阪を、浪速というのが   懐かしいとあった。浪速、難波、浪花、浪華。万葉仮名では   奈尓波、奈仁波・・・。 古代になると水運の利便から難波津と   いう港がこの地に生まれて、物流の一大拠点となっていた     中大兄皇子による大化の改新の後に、難波長柄豊碕宮   (前期難波宮)が、叔父の孝徳天皇により造営をされたが   その死後に都は再び明日香に戻り、宮もまた焼失をして   しまったそうだ     奈良時代になり、聖武天皇が離宮(後期難波宮)を   設置をして、平城京との複都制としたのだが、すぐに   難波宮から紫香楽宮へ遷都をしたそうである。更に   長岡京への遷都時に、大極殿などの建物も移されて   難波宮も歴史の狭間に消えていった           そんな古代のつかの間の都の跡も、大阪城の真横にある   ので、見物をするのも面白い。このブログで前に紹介した   近代的な大阪歴史博物館で、日本史の教科書に記載   されるような歴史絵巻を勉強が出来る     大阪城の天守から、くるりと大阪の街を見下ろしてみる   このあたり(石山)は、上町台地の小高い丘の北端にあたり   淀川と旧大和川が合流をして、淀川水系や瀬戸内海の水運の   拠点である渡辺津(渡辺綱の渡辺氏が住んだから?)によって   随分と繁栄をしていた          石山には蓮如の隠居坊があった事で、次第に寺内町を形成   商人も移り住んで拡大し、石山本願寺を崇敬する門徒も多く   本山の山科本願寺をも圧倒をする勢いであった。また台地に   そった坂にあるので、小坂・・・後には大阪と呼ばれるように   なったと言う        一向一揆を背景に、本願寺の影響力が強くなるのを恐れた   細川晴元は山科本願寺を焼き討ちした為、その後に本山と   なった石山本願寺も、堅固な石垣をめぐらして要塞化して   織田信長を相手にして石山合戦を10年をも行ったのだが   ついに門主の顕如は和睦             しかし長男である教如はこれに従わず籠城を続け、退去を   命じられて他所に移った直後に、石山本願寺は三日三晩に   わたり炎上を続けたそうだ。そんな戦国大名を相手に戦った   石山本願寺跡を造成し、築かれたのが豊臣秀吉の大阪城だ       城内の豊國神社(京都市の豊国神社の別社)は、主祭神が   秀吉で、豊臣秀頼、豊臣秀長も祭神とされており、かつては   中之島に鎮座していたそうだ。秀吉の秀と、石山の地名の   石とで命名をされた近代の秀石庭があった              大阪冬の陣では、大阪城の南面の防御が弱い事を見ぬき   自ら大阪城を出て笹山に出城(真田丸)を築き、徳川軍と   徹底抗戦をした真田幸村の居城であった信州の上田城と   大阪城が友好城郭提携を行った記念に、信州上田の桜が   幸村桜と名づけられて植樹されていた     金明水井戸は秀吉の在世中に掘られ、氷のごとく冷たく   この水にものを漬けておくと味を保持できそうだ。水毒を   除く為に、多くの黄金が沈められているそうで黄金水とも   呼ばれていたが、近代の調査では何も見つからなかった            三重の堀と運河によって囲まれ、万全の防衛設備が施された   大阪城も自慢の堀を埋められ、豊臣氏と共に大阪夏の陣で   大炎上。後には徳川幕府の直轄領(天領)に編入をされて   二代将軍徳川秀忠による天下普請で、大坂城の再建がされた     徳川の大坂城は、秀吉の大坂城の石垣と堀を破却してしまい   全体的に約1メートルから10メートル程も盛り土をした上に   石垣が積んであり、縄張も改めさせた上で豊臣氏の影響力を   払拭するように再建されたものだそうだ     江戸幕府の金蔵の中で、唯一現存をする貴重なもの建物もあり   他の幕府の建物ともども、国の重要文化財に指定をされている   最後に大阪城が時代劇に登場するのは、最後の将軍の慶喜が   鳥羽伏見の戦いで破れて逃げ込んだ沢山の幕軍を、大阪城に   残して船で江戸に逃げ帰ってしまう事          そんな混乱の中で、新政府軍に開け渡された大阪城は出火し   城内の殆どの建造物の焼失してしまった。のちに新政府は   城内の敷地を陸軍用地に転用し、東側の広大な敷地に兵器   工場(大阪砲兵工廠)が設けられた為、太平洋戦争時では   米軍の爆撃目標となったそうだ     鉄道唱歌の東海道第1集には「三府の一に位して 商業繁華の   大阪市 豊太閤の築きたる 城に師団は置かれたり」と歌われて   いるように、大日本帝国陸軍の第四師団司令部がおかれており   その堅固な庁舎は、戦後に進駐軍が接収され、後には大阪府   警察本部、大阪市立博物館としても使用されてきたそうだ           明治3年6月から、陸軍は大砲を使い毎日の朝昼晩の3度   黒色火薬を用いた空砲により時報を打ち鳴らしたが、明治   7年7月からは正午のみとなったそうで、「お城のドン」や   「おひるのドン」と市民は呼んで、長く正午の時報の役割を   果たしていたが、大正12年、高麗橋三越の屋上に新式の   サイレンが据えつけられたのを機に廃止されたと言われる     そして近代日本で忘れられない出来事が大阪万博。その時の   タイムカプセルもあった      さてさてエレベーターつきの城の内部では、貴重な資料も多く   そのエリアのみ撮影が禁止で紹介が出来ないが、なぜか信玄や   謙信、景勝などのゆかりの品も♪ また戦国武将の兜をかぶって   なりきり撮影会も出来る           おみくじだって、戦国おみくじだ。やっぱ天下統一が出来るとか   そんな内容なのか? 気になる~     ジュースの自販機だって、安土桃山っぽいし          それどころか、大阪市の自慢の水道水も販売をしてた     幸福の鈴の横には、かっとばし。折れたバットを再利用   したという箸で、これはタイガースバージョン          大阪城や、その周囲にはにはいろんな驚きがあったけど   一番インパクトがあったのは、キケンな切り株。城内には   他にもキケンもあって・・・おそるべし大阪城!       難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花    仁徳天皇の即位を祝い、百済の帰化人の王仁が詠んだ歌で    平安時代には難波津の歌は、誰でも知っている歌の代名詞と    されており、競技かるたでは競技の開始時にこの歌を詠む    そうだ。この花とは梅であるとか。そろそろ咲き始めるのかも          平成21年12月21日に大阪城付近で撮影

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