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殿上人日記

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2010年05月25日
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カテゴリ:名古屋より

      名古屋城6

  楽天ブログでも、平城遷都1300年祭に沸く奈良へ
  行かれたという日記を幾つも拝見し、話題になった
  「せんと君」の画像などもあり、いつかは見てみたい
  とは思うのだけど、いかんせん華がない。かといって
  京都出身の島田紳助が、京都市とタイアップをした
  「新選組リアン」は、芸能人ぽいので敷居が高いし


 名古屋城9

  そんな中、全国の歴女の皆さんが、名古屋開府四百年を
  迎える金シャチ輝く名古屋城に出没するのは、名古屋弁で
  有名な「河村たかし市長」に会いに来たわけでもなく・・・
  (名古屋城では、おいそれと会えません!)


       名古屋城15

  「400年の旅人」と呼ばれ、名古屋市の市章である
  丸八印の風呂敷包みをいつも担いだ「はち丸」に
  会いに来たのでもなく・・・
  (一部、ゆるキャラのファンは会いに来たのかもね)


       名古屋城20

  あぁ、コンクリートでできた名古屋城をバックにした
  時代絵巻スペクタル! 「名古屋おもてなし武将隊」の
  イケメンな皆様にお会いしに駆け付けている次第だ
  その様子は後半のお楽しみという事で、まず名古屋城を
  探検するとしよう


 名古屋城5

  この地は、駿河の今川氏が尾張守護を兼ねていた頃に
  その庶流にあたる、那古野氏が領有をしていたそうで
  今川氏が、大永年間(1521~1528年)に築城した
  「柳の丸」を、織田信秀が城を奪って「那古野城」と
  名付けたそうだ


 名古屋城2

  織田信秀の嫡男である信長は、那古野城で生まれたとも
  言われ、信秀は那古野城を幼い信長に譲って、古渡城を
  築いてそこに移ったそうだ。(勝幡城で誕生をした説も)


      名古屋城11 

  織田信秀の後を継いだ若き信長は、一族である織田信友を
  滅ぼし、清須城に移り、那古野城には信長の叔父や重臣が
  入城したが、のちに廃城となり、鷹狩に使われるような荒れ
  野になってしまったという


 名古屋城1

  徳川家康が御三家の尾張藩の初代藩主とする、九男の徳川
  義直の居城として慶長15(1610)年に、豊臣恩顧の西国の
  諸大名の助役による天下普請で築城されたのが名古屋城だ  


      名古屋城7

  縄張は牧野助右衛門が務め、普請奉行は滝川忠征ら5名
  作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられ
  石垣は諸大名の分担によって築かれたので、それぞれが
  自藩の石とわかるように「刻文」が彫られている


 名古屋城8 

  中でも異彩を放つ一番大きな石は、加藤清正が運んで
  きたといわれ「清正石」と呼ばれているが、この石塁の
  施工大名は黒田長政であったので単なる言い伝えかも
  しれないが、なぜ加藤清正が有名であったかと言うと    


       名古屋城4

  最も高度な技術を要するという天守閣や小天守の石垣を
  加藤清正が築いた為なのかもしれない。遠方で切り出し
  された石は大きな船に載せられ、海路で熱田まで運ばれ
  そこからは、修羅と呼ぶ木橇(きぞり)に石を載せて
  丸太の上を転がしながら、普請場まで運ぶそうである


 名古屋城10

  加藤清正は美しく着飾った小姓と共に、石の上に乗り
  綱引きの人々をはやしたて、沿道の見物人に酒を振る
  舞ったそうだ。こうして名古屋城の普請も無事に終えた
  清正は熊本への帰国の途中、大坂城で豊臣秀頼に
  拝謁したそうである


      名古屋城12

  熊本に帰った翌年に清正は没し、長男忠広が後を継いだが
  寛永9(1632)年に、忠広の子でわずか14才の正光が
  諸大名の名前と花押を記した、謀反の連判状の偽物を作って
  家臣をからかった冗談が幕府に伝わり、謀叛をたくらんだと
  いう罪で熊本52万石から、出羽丸岡に1代限り1万石の
  所領を与えられ、家族や20名の家臣と庄内へ移封された


       名古屋城13

  光広は飛騨の高山藩主金森重頼にお預けとなり、天性寺に
  蟄居となったが1年後に病死をしたそうで、自刃をしたとか
  毒殺説もあるそうだ。あぁ・・・また横道に逸れてしまった

    
 名古屋城14

  名古屋城は第二次大戦の空襲で炎上し、天守は戦後に
  コンクリートで再建をされたが、現在は本格的な木造の
  を造営中で工事の様子を見物できる。また河村市長は
  天守も木造で再建をしたいとも話されているとか


       名古屋城16

  慶長15(1610)年に、名古屋に生まれたはち丸君には
  自然と平和、スローライフを求めて世界を旅しているカメの
  だなも (やっとカメ)や、頭にオスの金鯱とエビフライを
  飾ったエビザベス (なごやジョウ)や、はち丸の風呂敷の
  中に入って一緒に旅をしているかなえっち (ねがいボシ)と
  いった友達がいるそうだ


 名古屋城22

  そして、いよいよおもてなし武将隊の登場だ。一番手前に
  おいでになるのが、子孫がどえりゃ~目にあった加藤清正だ
    
  尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区)の鍛冶屋の子に生まれ
  ながらも母親が秀吉の生母である大政所の従姉妹であった為
  長浜城主時の秀吉に小姓となり、後の賤ヶ岳七本槍の一人だ
  

       名古屋城17

  そして織田信長の奥に控えるのは徳川家康。三河の山奥の
  松平郷の紹介で先祖の話はしたが・・・織田と今川の狭間の
  三河国の岡崎城主の松平広忠の子として生まれ、幼き時は
  織田氏の人質として、数年を名古屋の地で過ごした事もある
  かなりなタヌキ爺らしいが・・・


      名古屋城18

  愛の武将の仮装をした子供をからかうのは、太閤豊臣秀吉
  尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区)の半農半兵の家に
  生まれて、織田信長に小者として仕えてからの大出世は
  目覚ましい。信長の不幸もあって、ついには天下人になった
  

 名古屋城24

  そして武将隊を率いるのは、第六天の魔王とも恐れられた
  織田信長。これは宣教師フロイスの書いた書簡にあって
  遠江、三河に侵攻をしようとした武田信玄が「天台の座主
  沙門信玄」と署名した手紙を、信長に送ってきたので
  「第六天の魔王信長」と署名をして返事をしたからだとか

  尾張国の戦国大名である織田信秀の次男として、那古野城
  (勝幡城説も)で生誕をした。もし信長が生きていたら
  日本はどんな国になっていたんだろう?


      名古屋城19

  大河ドラマでも主役をはった加賀百万石の祖、前田利家は 
  尾張国海東郡の荒子城主であった前田利昌の子と生まれ
  織田信長の小姓から、のちには赤母衣衆として仕えて後
  槍の名手だったので「槍の又左」の異名をもつ戦国大名と
  出世した


 名古屋城23

  漫画やドラマでも、イケメンの傾奇(かぶき)者として有名で
  人気の前田慶二(前田利益)は、いろんな名前が残されて
  いるみたいで、信長の重臣であった滝川一益の一族ながら
  実母(姉、おば?)が、荒子城主の前田利久(利家の兄)の
  妻となり、子が無かった前田利久により養子に迎えられて
  前田家の通字「利」と、滝川家の通字「益」から、利益だとか
  名乗った

       名古屋城21

  ところが織田信長より家督を、弟の利家に譲り隠居をする
  ように命ぜられた利久に従って荒子城から退去し、後には
  養父利久と共に叔父の前田利家に仕えたが、利久の死後に
  前田家を出奔し、愛の武将とのよしみで上杉家に仕官をし
  米沢での隠棲後は、和歌や連歌を詠んでいたそうだ


 名古屋城3

         平成22年2月27日に名古屋城で撮影


   武将都市ナゴヤHP http://busho.ncvb.or.jp/

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最終更新日  2010年05月25日 10時24分05秒
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