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殿上人日記

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2010年06月30日
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カテゴリ:愛知、三重の旅

 153

  今は愛知県豊田市に編入をされた「足助(あすけ)町」は
  三州街道(中馬街道、塩の道)での奥三河の中継地として
  往年は富栄えた宿場町であった  


      118

  そんな面影を今に残す古い町並みには、マンリン小路という
  美しい小路もあって、以前にもこのブログでお雛様ともども
  紹介をした事もあった(↓トラックバックでどうぞ)

      「足助で、懐かしき昭和の時代にタイムスリップ」


 120

  今年の春に出かけたのは、発掘調査に基づいて整備をされた
  全国でも初めての試みである、戦国期の「足助城(真弓山城)」
  である(平成9年以降、4年連続で法面が崩壊し、平成12年の
  東海豪雨では大規模な被害を受け、近代的な補修もされた)


      123

  平成元(1989)年、愛知県の愛知のふるさとづくり事業と
  国のふるさと創生基金を利用をする事で、足助町に城の
  復元を行なうことが計画をされた


 127

  当初は香嵐渓の象徴でもあり、平安時代末期に足助氏初代の
  足助重長による飯盛山城を復元をしようとしたが、飯盛山は
  県の史跡指定がされ、城の年代が古いので櫓など小規模な
  城になるので断念


 129

  その代わりに標高301のメートルの真弓山にあったという
  戦国期にこの地を治めた、足助鈴木家の本城であるという
  「真弓山城」を復元する事となり、1990年から1992年に
  かけて綿密な発掘調査と復元が行なわれた


      138

  この城は古くから、足助城、松山城、足助松山の城などとも
  呼ばれ、足助氏の築いた足助七屋敷の1つと言われていたが
  発掘調査では、足助氏統治時代の遺構が出てこなかったそうだ


 136

  この城に所縁は無いようだが、この地をかつて治めた足助氏は
  平安時代末期に浦野重遠の孫の重長が、この地に住みついて
  足助氏を称して飯森城を本拠としたそうである


 135

  河内源氏の嫡流に臣従をした足助重長は、源為義の八男である
  源為朝(鎮西八郎)の娘を娶り、その娘は鎌倉幕府二代将軍
  源頼家の室となって、公暁の母になるなど有力な御家人だった


      130

  その活躍は目覚ましく、初代の足助重長は治承・寿永の乱の
  「墨俣川の戦い」で兄らと共に参戦をしたが、戦後には捕虜と
  なり平家方に処刑をされたそうだし、その後には後鳥羽上皇が
  倒幕の兵を挙げた「承久の乱」では、京方として戦って二代目
  足助重秀の子の重成が討死にした


 151

  後醍醐天皇による「元弘の乱」は、事前に討幕計画が幕府に
  知れてしまい、笠置山に逃れる事になった天皇の呼びかけに
  集った二千五百人の総大将を務めたのが、七代目惣領の足助
  重範であった


 149

  弓の名手であった重範は、荒尾九郎、弥五郎兄弟を遠矢で討ち
  取るなどして奮戦をしたが、落城後に幕府方に捕えられて京都
  六条河原で処刑をされた。その後の足助氏は南朝の宗良親王を
  支援をしていたが、足助を離れて全国に散り散りとなり、一部は
  室町幕府に降り、奉公衆に取り立てられ重んじられたとも伝わる


      126 

  そんな足助氏は本城の飯盛山城の他に、真弓山城(豊田市足助町)
  大観音城(豊田市足助町)、城山城(豊田市足助町)、成瀬城
  (豊田市足助町)、黍生城(豊田市井ノ口町)、臼木ヶ峯城
  (豊田市岩神町)などの城砦を配置し、足助七屋敷と呼ばれる


 158

  南朝に与した足助氏の没落後は、足助鈴木氏が勢力を増すと
  足助城(真弓山城)を本拠とし、八桑城(豊田市新盛町)、安代城
  (豊田市富岡町)、浅谷城(豊田市山谷町)、大沼城(豊田市大沼町)
  阿須利城(場所不明)、田代城(豊田市下山田代町)を足助七城と
  したそうだ


 125

  紀伊国藤白を本拠にする、藤白鈴木氏の出自である鈴木重善が
  三河国矢並(豊田市矢並町)に土着をしての「三河鈴木氏」は
  三河西北部に台頭し、戦国時代になると、寺部(豊田市寺部町)
  酒呑(豊田市幸海町)、足助(豊田市足助町)、則定(豊田市
  足助町大字則定)などの諸家に分かれていった


      148

  足助鈴木氏は、忠親、重政、重直、信重、康重と五代が続いた
  そうで、三河岡崎城主の松平清康(家康の祖父)に攻められて
  松平氏に臣従をしたが、武田信玄の奥三河侵攻により足助城も
  落城。武田信玄は下条信氏を城代に置いて城を支配下とした


 146

  武田信玄没後に、徳川家康は嫡男の信康に命じて、足助城を
  奪還させて、旧城主の鈴木康重を足助城に戻したのだが、徳川
  家康の関東移封に従い鈴木康重も関東に移った為、足助城は
  廃城となり(鈴木氏は徳川から離れて浪人となったとそうだ)
  江戸時代になると、足助は徳川幕府直轄の天領地となった


      150

  戦国時代の山城を忠実に復元をした足助城であるが、南の丸
  腰曲輪跡から、井戸跡、西の丸腰曲輪跡、その上部の西の丸跡に
  敵の侵入を防ぐ柵列と西物見台。南の丸跡には、はねあげ戸や
  カマド小屋と2棟の厨(くりや)が復元をされている


156

  本丸跡には江戸時代の天守にあたる、掘っ建て柱の二階の高櫓と
  長屋が復元され、その眼下に足助の町並みも眺められる。山深い
  土地でありながら、この地は三河、尾張、美濃、信濃の国を結ぶ
  交通の要所であった


 162

  こちらは帰りに寄った豊田市武節町針原の国道153号に
  ある「道の駅どんぐりの里いなぶ」で、米粉が入ったパンや
  稲武の特産である「朝紫」という古代米を混ぜて炊いた
  山菜おこわなどが人気であるとか


 163

  そのすぐ脇の小高い城山には、戦国期に田峯城の菅沼定信の
  支城として築城された武節(ぶせつ)城があり、武田信玄の
  三河侵攻で本城の田峯城と共に落城し、武田の支配下となり
  「長篠の戦い」で敗れた武田勝頼は武節城へ落ちのび、梅酢湯を
  飲んだという。この城も家康の関東移封に伴い廃城となった


 160

        平成22年3月28日に奥三河の足助、武節で撮影






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最終更新日  2010年06月30日 13時57分37秒
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