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殿上人日記

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2014年12月13日
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カテゴリ:旅のいろいろ


先月はブログ開設10周年記念をいい事に、古い日記を
再び持ち出してきたけど、あちらこちらへと出あるく身
なので、出かけた行楽などの三分の一はお蔵入りのまま
紹介出来ないでいる




下手をすりゃ旅行記の途中でホッタラカシの憂き目にも
今回の日記も2年前のこの時期に、旦那と出かけた舞鶴
宮津、小浜、天橋立、丹後半島、城崎、出石の2泊3日
ドライブ旅行の紹介の途中で、写真だけが下書きのまま
ホッタラカされて早2年。なんで途中になったんだ


              

それまでの旅の日記は↓の通り。細かすぎるんかなぁ~

2012年11月19日
娘の引っ越しで延びたドライブ旅行先は、再選に湧くあそこ

2012年11月21日
30年来の念願。海のある奈良、小浜の仏と人魚を食べた娘

2012年11月25日
ドアラを取るか、娘を取るか・・・小浜から紅葉の谷へ




2012年11月29日
海を渡った親王に、三島文学の舞台。果ては酒呑童子の大江山

2012年12月03日
二日目は青空の下、日本三景で

2012年12月06日
女流歌人に、戦国の剣豪。夜な夜な狛犬が闊歩した天橋立

でも、あれもこれもと紹介したいし




そういう訳で、最近の行楽も勿論沢山あるけど、その写真を
グーグル+から貼るのも面倒なので、ず~~っと下書きに
ある旅行記の続きの写真に文章をつけて、ご紹介出来たら
なんて思う




旅日記の続きは日記のテーマで前後したが、初日に出かけた
舞鶴。私は二度目の来訪だ。11月の一連の日記の再録でも
もう一度読んで貰いたかったのは、家族のお笑いネタの他には
どうしても太平洋戦争の戦跡来訪のものになる




日本海に面し古くより栄えた舞鶴は、ウィキペディアより転載

>1901年(明治34年)10月には、軍事的要地として東舞鶴に
>舞鶴鎮守府が設置され、初代長官には東郷平八郎が就任した
>(東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が
>発祥地とされる) 中略 関東大震災で被災した横須賀市に
>あった海軍機関科士官を養成する海軍機関学校が移設された




>1943年(昭和18年)になり、いよいよ戦局が激化すると、
>舞鶴鎮守府は日本海軍の重要拠点として強化される事となり
>東舞鶴市(東舞鶴地区)だけではなく、旧舞鶴市(西舞鶴
>地区)にも海軍諸施設が多数立地するようになった。また
>舞鶴海軍工廠では艦船を中心に蛟龍などの特殊兵器も
>生産するなど軍需生産拠点としても機能強化が図られた




>戦線が激化するにつれ、舞鶴は後方支援都市として軍需産業が
>勃興し、人口も増加したが、1945年(昭和20年)7月29日、
>突如としてアメリカ軍が来襲、海軍工廠を中心に舞鶴を空襲
>した。また翌日も舞鶴港を中心に大規模な空襲に見舞われ、
>多数の死傷者を出した




このように舞鶴のあちらこちらに当時の戦跡が残っており、明治
より大正時代を通じて旧日本海軍によって建てられた赤煉瓦造りの
舞鶴旧鎮守府倉庫施設は国の重要文化財、近代化産業遺産とされ
一般に公開。テレビ、映画のロケでも使用をされている


              

そんな海軍関係の資料の脇に青年の銅像。彼はここ京都府舞鶴市
出身で元棒高跳日本記録保持者の大江季雄。ベルリンオリンピック
銅メダリストであり、西田修平との「友情のメダル」の複製品が
展示してあった




ウィキペディアより
>競技の当日、4m25cmで3人が並び順位決定戦の1本目で西田と
>大江の2位、3位が確定したが日没や日本人同士の順位争い
>だったため西田は二人で2位を分け合うことを望み打ち切りを
>提案する。




>結局4m25を1回目で飛んだ西田に銀が与えられたが、西田が
>これを不服とし、表彰式で大江を2位の台に上げ自らは3位の
>台に立っている。帰国後に銀メダルを持ち帰った大江の兄が
>間違いに気付き西田の元にメダルを届けるが、悩んだ西田が
>知人の経営する宝石店で2つを切ってつなぎ合わせ、「友情の
>メダル」が誕生した


              

そして舞鶴で忘れられないのが・・・

♪母は来ました今日も来た この岸壁に今日も来た
とどかぬ願いと知りながら~♪という、岸壁の母が
見つめた日本海。当時の引揚桟橋があった平にある
「舞鶴引揚記念館」にも見学に出かけた。 




ウィキペディアより
>舞鶴港は戦中は旧海軍の軍事的拠点として使用されていたが、
>戦後は大陸に進駐していた軍人軍属や一般人の日本本土への
>引揚および日本に在留していた中国・朝鮮人の送還のための
>指定港のひとつとなった。




>さらに、日ソ中立条約を一方的に破棄し侵攻したソ連軍の
>捕虜となり、シベリアに抑留されていた旧軍人も、舞鶴へと
>帰還した。他港が早々に引揚港から除かれたため、これら
>引揚者のほとんどが、舞鶴港を入港先・帰還港とした。
>これに伴い、日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの
>人々が、舞鶴港へと出迎えに訪れた。




>ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景で
>あったが、時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの
>人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、これが
>いつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」と
>して取り上げられ、たちまち有名になった。




>シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、終戦後武装解除され
>投降した日本軍捕虜らが、ソ連によっておもにシベリアに労働力
>として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働に
>より多数の人的被害を生じたことに対する日本側の呼称。




>一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際
>には現在でいうモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、
>バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなど
>ソ連の勢力圏全域や中華人民共和国に送り込まれていた。現在
>でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。
>彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。




>厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を
>強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。この
>ソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証した
>ポツダム宣言に背くものであった。ロシアのエリツィン大統領は
>1993年10月に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の
>意を表する」と表明した




>終戦時、ソ連の占領した満州・北鮮・樺太・千島には軍民あわせ
>約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後
>シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。
>アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』に
>よれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は
>9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。




>2005年(平成17年)は、海外引揚60周年に当たる年であった
>ことから、海外引揚第1船の入港した11月7日とその前後の
>日に記念行事が同市内各所で開催された。記念館の収蔵品の
>うち570点が、『舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等
>日本人の本国への引き揚げの記録』としてユネスコ記憶遺産の
>2015年登録候補となっている ウィキペディアより転載




                平成24年11月15日に舞鶴市内で撮影





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最終更新日  2014年12月13日 20時11分54秒
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