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 殿上人日記

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2019年05月21日
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カテゴリ:旅のいろいろ


​さてさて開催中の信州花フェスタの​日記を
優先し紹介をしましたが、再び4月上旬に
娘と出かけた、桜咲く北陸7城巡りのバス
ツアーの日記に戻るとする。富山城に続き
紹介をするのは「高岡城」である




ウィキペディアで紹介をすると
>1605年(慶長10年)6月28日、富山城に
>隠居した初代加賀藩主・前田利長は4年後の
>1609年(慶長14年)、富山城下の町人地
>から出火した火災の類焼により、城内の
>建築物の大半を焼失したため、利長は魚津
>城に移り、




>大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の
>報告と、関野に築城の許可を貰う。利長は
>築城の方針に伴うため、資材調達を小塚
>秀正ら、現地奉行を神尾之直らに命じ、
>魚津城から築城の指揮を取り、同時に
>城下町の造成も始めた




>縄張(設計)は当時の前田家の客将だった
>高山右近とされている。同年9月13日、利長は
>「関野」を「高岡」と改め、未完成の高岡
>城に入城した。殿閣は先代利家が豊臣秀吉
>から賜った豊臣秀次失脚に伴い破却された
>伏見城秀次邸の良材を使って建てられた
>とも伝えられる。




>しかし、1614年(慶長19年)5月20日に
>利長は死去(享年53)し、隠居城として
>使われたのはごく短期間であった。その
>翌年の1615年(元和元年)には一国一城
>令により、大坂夏の陣からの利常凱旋を
>待って高岡城は廃城となった




>(その代わり加賀国に小松城を築くことが
>ゆるされた)ただし、廃城時期については
>1638年(寛永15年)とする異説もある。
>しかしながら、廃城後も高岡町奉行所の
>管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・
>番所などが置かれ、軍事拠点としての
>機能は密かに維持された




>これは加賀藩の越中における東の拠点で
>あった魚津城も同様であった。街道の
>付け替えの際には、濠塁がそのまま残る
>城址を街道から見透かされるのを避ける
>ため、町屋(定塚町)を移転して目隠しに
>したといわれる




>また、廃城後に利長の菩提を弔うために
>建立された瑞龍寺や周囲に堀を備える
>利長の墓所自体も高岡城の南方の防御
>拠点としての機能を併せ持つものとして
>配置されたと考えられている




>郭は、本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶
>丸の五つからなるが、現在では「御城外」と
>されている小竹藪や梅林も、これに加える
>ものと考えられている。(中略)基本的な
>プランは利長の先の居城であった富山城
>との類似性が見られ




>その発展型とみることができる。今なお
>築城当時の濠塁をほぼそのまま残して
>おり、総面積の約21万m2(71,261坪)の
>内、約3割(24,400坪)が人工の堀である。
といった感じで、ウィキペディアを丸写し
させていただき、




高岡城址を紹介させていただきました。日本
100名城の他に、桜の名所100選にも
選ばれている。江戸時代には前田家の防衛を
担っていた高岡ですが、ここ最近は違った
意味で脚光を浴びてますよ。「令和」で~




鶯(うぐひす)の鳴き散らすらむ春の花
      いつしか君と手折(たを)りかざさむ 
天平19年(747年)2月29日、病気で
あった大伴家持が、大伴宿祢池主に贈った
悲しみの歌です。万葉集を編纂したと伝わる
大伴家持は、越中の国守として高岡に赴任




5年間の在任中、高岡で様々な万葉の歌を
残しました。中には私が学生の頃から好きな

もののふの八十娘子(やそおとめ)らが
   汲み乱(まが)ふ 寺井の上の堅香子の花




なんてものもある。堅香子(かたかご)とは
今はジャガイモで代用される片栗粉を、本来
根茎からとる、かたくりの古来の名前である
高岡城址にも、愛らしい堅香子の花が咲いて
いた




令和は万葉集の大伴旅人(家持の父親)による
歌からとられており、その舞台となった大宰府が
注目されているが、その子の大伴家持の赴任先
だった高岡もまた、万葉集がらみで盛り上がって
いるようだった




この花は染井吉野ではないんです。固有の桜と
いうと信州高遠城に咲く高遠コヒカンザクラが
天下第一の桜として有名ですが、こちらの花は
10年ほど前に、新種として認定を受けた
「タカオカコシノヒガン」桜だそうです




もともと富山県南砺市に自生地がある「コシノ
ヒガン(越の彼岸)」という桜は知られていた
のですが、「タカオカコシノヒガン」は花びらの
丸みが強く、やや波打った形状をしているが
特徴だそうだ




それにしてもノッポな桜だ。高岡城築城の際に
太田村の宗右衛門という者が砺波地方の山桜を
献上して植えたのが始めで、高岡城に隣接して
馬場が設置され、その両脇には宗右衛門由来の
山桜が植えられ、歴代の藩主の手厚い保護の
もとで育成されたそうです




その他にも高岡城址には「コシノカモザクラ」
という新種の桜も咲いているのだという。桜の
園では、華やかな衣装の花婿さんと花嫁さんが
記念撮影を行っていた




高岡城址にはこのような新種の、珍しい桜の花
などの他にも、ソメイヨシノ、オオシマザクラ、
エドヒガン、ヤマザクラなど18種、1800本
もの桜が春には咲き乱れている




今回の北陸の7つの名城を巡るバスツアーでは
幾つかのお城で現地ガイドがつくのだが、私の
班の担当の女性は、お濠とお花や万葉集が中心
だったので、ぬぁんと前田利長の騎馬像なども
観る事なく終わる・・・




堅香子の花の近くの、こんな猿の写真は撮れたの
だけど。。。娘も暇そうで添乗員さんが別行動を
とってもいいですよ~と言ってくれたの、素直に
聞いておけばよかった。でも別行動だった場合
「タカオカコシノヒガン」に気が付かなかった
可能性は高そうだ




と言った訳で、本来であればこれで山中温泉へ
向かうはずだったが、最終日に行くはずだった
金沢城に急遽立ち寄る事となった。その方が
明日のルートが戻らなくて効率が良いらしい
だったら最初からそうゆう日程で組めばいい
のに・・・と思いつつ




金沢城に着いたのは午後5時半近くで、近くの
バス駐車場から、添乗員が城の前まで送って
くれて、そこからはフリータイム。集合時間
までには、自分たちでバスまで戻るという話
だったけども




城門に着いた時点で、閉門の30分前~~
たった30分しか時間がないのか。これでは
櫓の中の見学どころか、満足にお城の中も
まわれるか心配だ。他の奥様方は最終日の
金沢が楽しみだったようで、時間はないし
こんな夕暮れに!と、かなり文句が出ていた




娘も、目の前の兼六園も行ってみたかったと
言うので、入口の灯篭位しかないぞとか、冬の
雪吊りがないとな・・・と。駆け足の金沢城も
とりあえず石川門や三十間長屋、鶴丸倉庫の
重要文化財は、外観をおさえたいところだ




30分しか拝観時間がないので、とにかく
速足でてくてくと・・・石川門は一番最初に
入場をした桜に囲まれた門なので、まずは
1つ目をゲット~!。再びウィキペディアに
説明をお願いすると




>金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野
>川とに挟まれた小立野台地の先端に築か
>れた、戦国時代から江戸時代にかけての
>梯郭式の平山城である。櫓や門に見られる、
>白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)
>壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、




>櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋
>破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。
>この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の
>寺院である「尾山御坊」であった。寺とは
>いうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と
>同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞
>でもあった。




>織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を
>築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の
>戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を
>前田利家に与えた。利家は文禄元年(1592年)
>から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の
>天守や櫓を建て並べた




>兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が金沢城に
>付属してつくらせた大名庭園である。なお金沢の
>地名は室町時代の文明年間には既に存在していた
>ことが知られているが、尾山御坊時代は金沢の
>小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあった
>ことから尾山の呼称が使われていた




>佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が
>強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、前田
>利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対
>して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の
>出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。




>だが、金沢の地名が広く知られていたために
>尾山城の名前は普及せず、利家自身も再び
>金沢の城名を用い始めたと推測されている
>城址は明治以降、存城とされて軍施設が
>置かれたため建物の一部を残して撤去され、
>第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年
>まで置かれていた




こんな薄暗くなって!と奥さんたちに不評の
閉園間近の金沢城フリータイムだが、私は
結構好きかも。「逢魔時(おうまがとき)」と
いうような薄暗くなってきて、人もひいた時の
静けさは、より印象深く感じる事も出来る




これまでにも閉まる間近の夕刻に出かけた
奈良の東大寺大仏殿や、京都の三十三間堂
などは拝観者がいなくなり、独り占め気分
かけがえのないひと時となった。この城も
お花見客も多く真昼は大変な人出であった
だろうに




こちらが2つめの重要文化財の「三十間長屋」
安政5(1858)年に再建されたもので、金沢城
には、この他に全部で14の長屋があったと伝え
られている。元は軍備倉の堅固な造りで千飯が
貯えられていたらしいが、後には鉄砲蔵とも
呼んでいたそうだ




加賀百万石の前田家の居城である金沢城である
だけに、城内には見どころなどもあるけど時間が
ないから、横目で眺めつつも早足でスルー。さて
金沢城には天守閣はなかったのだろうか。どう
やら当初は天守閣を造ったのに、僅かな年数で
落雷のため焼失




その後は天守閣が再建をされないままで、廃藩
置県を迎えたそうだ。理由は財政的に厳しい事と
戦いに直轄をするような天守を作ることで幕府に
対して反乱でも起こす意思でもあるのかと疑いを
かけられたらいけないので。それに江戸期などは
天守がなく、櫓を代用した城が多かった




第一、江戸城自体の天守も、明暦の大火により
寛永度天守が焼失してしまい、今も残る御影石の
天守台が、加賀藩主の前田綱紀によって築かれれ
計画図も作られたが、保科正之が「天守は織田
信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の
守りには必要ではない」と言い、江戸の復興が
優先された




江戸幕府が盤石になったので戦いの為の天守は
もう時代に合わなくなったのかもしれない。とは
言っても江戸期に作られた天守もあったようだが
さてさて重要文化財の金沢城土蔵の「鶴丸倉庫」




武具蔵として嘉永元(1848)年に建てられた
大型の土蔵で、土蔵造2階建、切妻造、桟瓦葺で
加賀藩大工の山本勝左衛門が普請を手がけた、明治
以降には、軍隊の被服宗箇などとして利用がされて
いたそうだ




このようにお城の塀などは作られているといった
わかりやすい実物模型とか




時代による城の石垣の変遷なども。初期の野面積み
などから、後期の切石積みなどを、石垣の内部が
どうなっているのかなどもわかって参考になった




金沢城は天守はないが、石垣も見どころだそうで
時間があればそれらを楽しみもしたかった。それに
前田利家の像もあったらしいが、気が付かなかった
高岡城の利長に続いて、金沢城の利家も・・・(泣)




閉門時間の午後6時ちょうどには、石川門に
戻ってきました。ここからバスの駐車場まで
数分。集合時間は6時10分です。石川門の
説明を最後になりましたが・・・




金沢城の搦手門(裏門)として、重要な位置に
あり、河北門、橋爪門とともに「三御門」と
呼ばれた。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形
門で、宝暦の大火で焼失したが後に天明8年
(1788)に再建をされた




金沢城の中には入れないが、石川門の真下とか
周囲では、お花見客が宴会などをして賑やか
だった。金沢らしいお店もいくつも並んでいたが
素通り、写真だけパトリ。そんなんで集合時間
前にはバスに戻ったが、慌ただしく添乗員さんが
バスから降りて。。。




石川門から反対側に行ってしまい、戻ってこない
お客さんがいるようで、携帯電話で連絡しあって
10分程で、バスに戻ってきた。携帯電話が無い
時代は大変だっただろうなぁ・・・こうして舟川と
富山城、高岡城、金沢城の見学を終え山中温泉へ
向かった。ではでは、続く~!




          平成31年4月5日に高岡城、金沢城で撮影

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最終更新日  2019年05月25日 21時25分56秒
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