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殿上人日記

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2019年06月17日
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カテゴリ:旅のいろいろ


さてさて、4月上旬に出かけた桜咲く
北陸の七名城のバス旅も​、最後の城と
なった。締めを飾るのはご想像通り
「北ノ庄城」である。本能寺で信長が
亡くなった後の戦国を大きく動かした
羽柴秀吉と柴田勝家の戦いの場である




ルイス・フロイスは「信長の時代の日本で
もっとも勇猛な武将であり果敢な人」だと
勝家を評している。武骨の性格と、秀でた
武勇から鬼柴田と呼ばれもした戦国を代表
する武将の一人だ




本能寺で横死したは信長の後継者を決める
清須会議で秀吉と対立。織田家臣団は二分に
わかれ賤ケ岳の戦いに敗れた勝家は、北ノ庄
城に逃れ、お市の方と共に命を絶った。勝家
だが妻も持たず、子供も養子ばかりだった
ようで




浅井長政の未亡人で、三人の娘の連れ子を持つ
お市の方(信長の妹)と、勝家は初婚だったのか
短い期間でありながらも、仲睦まじく暮らして
いたようだ。逃れようと思えば幾らでも城から
出られたお市の方が、勝家と共に北ノ庄城で
命を果てたのは、何かしら考えるところが
あったからに違いない




更には戦国を彩った浅井三姉妹だが、特に長女の
茶々(淀君)は、信長軍に攻められた小谷城の
落城で父親の長政を亡くし、秀吉軍に攻められた
ここ北ノ庄城では母親のお市の方を亡くし、更に
家康軍に攻められた大阪城で息子と、己の命を
散らしたという、戦国の悲劇のヒロインだ




女城主直虎とか、松陰の妹をする位なら、なんで
茶々を大河の主人公にしないのかな。結果的には
豊臣家を滅ぼしたヒールイメージが強いんだろうか
でも三度の落城と、その相手が三英傑(信長、秀吉
家康)って、すごいシチュエーションじゃないかと




さて織田信長の親族は美形ぞろいだったようでして
妹のお市の方は、戦国一の美人だったそうで、モテ
祈願も出来るという柴田神社。前回の福井城が元は
北ノ庄城だと書いたように、かなり広い城だった
ようで、このあたりには当時の天守があったらしい




柴田神社は勝家を主祭神とし、妻のお市を
配祀する。二人の辞世の句は、お市の方が
「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の別れを
誘ふほととぎすかな」で、その返句として
勝家は「夏の世に夢路は儚きあとの名を
雲井にあげよ山ほととぎす」との事だ




北ノ庄城について、ウィキペディアによれば

>朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向
>一揆(越前一向一揆)を平定した功績に
>よって、越前国北ノ庄を与えられた柴田
>勝家が、天正3年(1575年)に自らの
>縄張りによって築城を開始する




>同11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が
>敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が
>放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することに
>なるが、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じ
>られたという記録が残っている




>1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに
>結城氏によって北ノ庄城が築城されたため
>現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない
>平成5年(1993年)から6度にわたるの発掘
>調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の
>地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが
>本丸の正確な位置を完全に特定するまでには
>至っていない




>城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流
>した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用
>していたと推定されており、天守は7層(一説
>には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城で
>あったと伝えられている。柴田時代の建築を
>しのばせる史料として、宣教師のルイス・
>フロイスが1581年(天正9年)に北ノ庄を
>訪問したときの記録があるが、それによると




>「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく
>立派な石で葺かれており、その色により
>一層城の美観を増した」とある。この「石」
>とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石の
>ことであり、現在発掘調査で見出された柴田
>時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城と
>ほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって
>築城された丸岡城の天守も笏谷石製の石瓦で
>葺いている




>また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、
>勝家によって足羽川に架橋された九十九橋に
>ついても言及がある。次に、勝家を攻め滅ぼ
>した羽柴秀吉が戦後間もない1583年(天正
>11年)4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に
>送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、
>天守が九重」であった旨の記述がある




との事で、安土城にも負けなかった戦国の
城跡は今は街中でひっそりと。その殆どは
結城氏による北ノ庄城(福井城)になって
官公庁の庁舎が建っている。こうして北陸
七名城の旅は終わった




午前中に既に出かけてる越前大野へ戻り
そこから九頭竜湖のある油坂峠を越えて
岐阜県に入るようだが・・・、越前大野
結構、移動に時間がかかるのに丸岡城→
大野城→昼ごはん→福井城&北ノ庄城→
再び越前大野→九頭竜って、時間ロスが




帰路にあたる越前大野を最後の見学に
出来なかったのは、本来なら金沢城が
最後の観光先だった為だろうか。もしか
したら、当初は九頭竜ルートじゃなく
行きと同様に北陸自動車道から、東海
北陸自動車道が利用されるはずだったん
じゃないかと




だったら最初からそうゆうルートにすれば
越前大野の無駄な往復をしなくても済むのに
安い旅行は宿や、食事、観光、日程などで
何かしら、しわ寄せのようなものがある
ような気もする




長野県松本市から福井県福井市までを結ぶ
高規格幹線道路である「中部縦貫自動車道」
油坂峠道路が建設されており、これが出来れば
高山方面から福井方面もアクセスが楽になる




まだ開通をしていない九頭竜付近は、福井市
から岐阜県高山市を経由して長野県松本市に
至る国道158号を利用する事になり、スキー
場などもあった




道の駅九頭竜で、トイレ休憩でバスを降りた
時刻は午後4時頃だったが、高山までは道半ば
と言うか、福井市からそのまま米原経由の高速
利用で名古屋に帰った方がずっと早いと思うが
バスは高山発着の濃飛バスだし、名古屋からは
高山までのワイドビュー飛騨を利用することが
外せないのかもしれない




高山からは午後7時近くのワイドビューで名古屋
には午後9時頃着。ネット検索をしたら福井から
特急ではなく、JRの普通電車を利用しても、午後
3時に出れば午後7時には名古屋駅に到着できる
費用も3020円で済むし、お金を出せば特急で
所要時間は2時間だ




う~む。7つの城に目がくらんだけど、やっぱり
個人旅行では考えられない、へんてこなルートだ
まぁ、そのおかげで(北陸道&名神利用なので)
今まで来ることがなかった、名前だけは知っていた
九頭竜というような所に来れた訳だが




何でも鉄道ファンには憧れのJR西日本越美北線
(九頭竜線)の終点である、九頭竜湖駅のログ
ハウスっぽい駅舎も見学が出来た。ここからは
越美南線の北濃駅(岐阜県郡上郡白鳥町)まで
鉄道が繋がるはずだったが実現はしなかった。
岐阜県側は第3セクター化をされ長良川鉄道と
なっている




越美北線は福井市の越前花堂駅から、大野市の
九頭竜湖駅に至る22駅、路線距離は52.5 km
愛称を九頭竜線という。2004年の福井豪雨で
九頭竜川水系の足羽川にかかる5つの橋梁が流失
越前花堂駅と越前大野駅間が不通となり。莫大な
費用による全線の復旧には、数年を要したそうだ




九頭竜湖駅は福井地域鉄道部が管理し、隣接する
道の駅九頭竜の指定管理者である業者が窓口業務を
受託する簡易委託駅である。どれくらい利用者が
あるんだろうか




道の駅九頭竜には、24時間利用が出来る
EV充電スタンドもあった。休憩を終えて
バスはいよいよ九頭竜湖へと




九頭竜湖は、高さ128メートルのロックフィル
ダムの九頭竜ダム(洪水調節・発電が目的。元は
長野ダム)によって、九頭竜川がせき止められ
出来た広大な人造湖である




九頭竜湖は面積890ヘクタールと、日本全国有数の
広さを持ち、春は万本桜が咲き、秋は紅葉が美しい
風光明媚な湖である。しかしバスの奥様らは女性の
遺体が入れられた冷凍庫が遺棄された殺人事件の
舞台として認識しているようだ




湖に架けられた箱ヶ瀬橋は瀬戸大橋の試作として
建設をされた吊り橋だそうで、愛称は夢の架け橋
なんだとか




湖畔には二つの慰霊塔があり、ネット検索をすると
日本語の他に英語やハングルの碑文もあり、どうも
戦没者のものであるらしいが、正しくは判らない




更に幾つかのふるさとの碑もあり、ダム建設に
よって湖底に消えた集落の人たちの、故郷の
記念碑であるようだ。旧和泉村(現大野市)の
上半原、米戸、箱ヶ瀬、大谷、野尻(字)集落
計500世帯あたりが湖の底に沈む事となり、
更にダム湖の造成で孤立する集落を含めると
800余名が立ち退き、主に中京圏に転居した




九頭竜川の語源であるが、寛平元年(889年)6月
平泉寺の白山権現が衆徒の前に示現され、その
尊像を川に浮かばせると、一身九頭の竜が現れて
尊像を捧げたからだとか色んな説があるそうだ




湯坂峠を越えて、いよいよ岐阜県へ突入。岐阜県も
クローバーみたいな形をしてて、東端に住んでいる
私には、西の果てはあまり縁がない。というか全く
未開の地であった




お~、これがスーパーによく置いてあるひるがの高原
牛乳の牛舎なのか!! バスの車窓からだけど名前
だけは知っていた地名を見て感動




白鳥からそのまま、東海北陸道を南下して名古屋に
出た方が良さそうだが、まぁ珍しい地域を車窓から
眺めれるだけいいか。もう来ることもないかも




車は北上し、旅の起点であった飛騨高山へと向かう
道路脇には残雪なども




東の彼方に岐阜県と長野県にまたがる北アルプスの
白い峰が目に飛び込んできた




夕刻に高山駅に無事に到着。午後7時近い特急の
時刻近くまで、自由時間となったが遠くまで行く
時間もないし、とりあえずコンビニで軽食を購入
駅のベンチで少し早い夕食をとる事にした




間もなく春の高山祭だという事で、駅前にはのぼりも
たっていた




福井のお土産は、昼ごはんを食べた土産物屋で購入
高山でも好きな塩せんべい




越前大野城では登城証明書を貰った。31897名目
みたいだ。行きには名古屋駅で集合をして、特急に
乗車をしたが、帰りには途中下車をしてもいいので
中央線を利用する人たちは、我々も含めて高山線の
美濃太田駅で特急を下車し、太多線で多治見に出て
そこから中央線へショートカット




名古屋駅に着くのと、さほど変わらない時間に
中津川駅に到着し、近くのスーパーで激安価格に
なっていた総菜を購入出来て、良い土産となった




        平成31年4月6日に福井市と、九頭竜から飛騨で撮影

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最終更新日  2019年06月18日 07時31分54秒
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