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カテゴリ:愛知、三重の旅
![]() そういった訳で、息子が単身赴任で岡崎で 暮らすようになって、早3ケ月が経とうと している。なんだかんだで月に1度は娘と 顔を出しているのだが ![]() 引っ越し初日に、息子は家から荷物を 運んだレンタカーで旦那と家に帰って 後から自分の車で岡崎入りをする事に なっていたが、私はガス開栓の設置の 立ち合いをする為に、一晩泊まった ![]() 無事に電気、水道、ガスのライフラインも 整ったので電車で家に帰る前に、折角だし 岡崎市の観光をして行こうと思い、行った 先は「岡崎城」。岡崎は前に数度は来てた けど、岡崎城の観光は実は初めてだ(と 思ったら2007年に登城してた) ![]() 1993年に再建された「大手門」は高さ11m 幅16.4m、奥行6.3mで、石垣には地元産の 御影石を使用し、入母屋造り。本来は現在の 浄瑠璃寺の南にあったそうだ ![]() 江戸幕府時代には岡崎城は「神君出生の城」と して神聖視されており、家格の高い譜代大名が 歴代の城主となったそうだ。神格化された君主 との事から徳川家康が東照神君として有名だが 源頼朝は鎌倉神君であるそうだ ![]() もともと神々の子孫である天皇は、神君と 名乗る必要はなかったそうである。中国や 東アジア地域では王朝の建国者を「高祖」 「太祖」「神祖」などとして廟号をおくり 信仰の対象としてきた ![]() 江戸幕府を開いた神君家康公は、「権現様」 とも呼ばれて信仰され、「神祖」、「烈祖」 などとも称されていたそうだ ウィキペディアの記事を引用させていただく ![]() >三河国の土豪である松平氏の第8代当主・ >松平広忠の嫡男として天文11年12月26日 >(1543年1月31日)寅の刻(午前4時頃)に >岡崎城 にて誕生。母は水野忠政の娘・於大 >(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ) ![]() >3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主と >なった水野信元(於大の兄)が尾張国の >織田氏と同盟したので織田氏と敵対する >駿河国の今川氏に庇護されている広忠は >於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き >別れになる。 ![]() >天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え >6歳で今川氏への人質として駿府へ送られる >こととなる。しかし、駿府への護送の途中に >立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の >裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた ![]() >だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、 >竹千代はそのまま人質として2年間、尾張 >国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。 >2年後に広忠は家臣の岩松八弥の謀反に >よって殺害された。今川義元は織田信秀の >庶長子・織田信広との人質交換によって >竹千代を取り戻す。 ![]() >しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は >今川氏から派遣された城代により支配 >された。 墓参りのためと称して岡崎城に >帰参した際には、本丸には今川氏の城代が >置かれていたため入れず、二の丸に入った。 ![]() >天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の >下で元服し、今川義元から偏諱を賜って >次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で >関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶る。 >名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい >蔵人佐元康と改めている。 ![]() >永禄元年(1558年)2月5日には今川氏から >織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を >攻めた、これが初陣であり、城下を焼いて >引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・ >伊保を攻めた。この戦功により、義元は旧領の >うち山中300貫文の地を返付し、腰刀を贈った ![]() >永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで >先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の >兵糧が足りないことを義元に訴えたため、 >義元から兵糧の補給を命じられた。しかし >織田軍は大高城を包囲しており、兵糧を >運び込むには包囲を突破する必要があった。 ![]() >そこで5月18日、鷲津砦と丸根砦の間を突破 >して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に >引上げた。翌19日、丸根の砦を攻め落とし、 >朝比奈泰能は鷲津の砦を攻め落とした。義元が >織田信長に討たれた際、大高城で休息中で >あった元康は、大高城から撤退。 ![]() >松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害 >しようとしたが住職の登誉天室に諭されて >考えを改める。その後、今川軍が放棄した >岡崎城に入ると独自の軍事行動をとり、早い >段階で今川からの独立を果たそうとする。 ![]() といった訳で幼くして母と別れ、尾張国に 人質にされ、父も殺され、今度は駿河国に 人質にされて苦労の末、やっと岡崎城に 戻ってきた訳ですが、まだまだ苦労も絶え ません。三方ヶ原の戦いでは武田信玄に 大敗を期し、信長の配下となり、秀吉を 称えて ![]() 天下分け目の関ヶ原で、大勝利をおさめ 大坂では真田幸村に本陣に攻め込まれた 事もありましたが、やっと家康が天下を 手に入れたのは、高齢になってからです 岡崎城天守をバックに、そんな家康公に あやかった出世ベンチに座って、一休み ![]() 次はウィキペディアで、岡崎城について >菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山と >いう丘陵を利用して造られている。元は、 >龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代で >あった西郷稠頼、そして、その子頼嗣が >北方に対する防御として築城したもので >ある。 ![]() >当時は、龍燈山城(りゅうとうざんじょう)と >呼んだ。それを、松平清康が西郷信貞(松平 >昌安)から奪い取り改修拡張整備したものが >岡崎城である。龍頭山はもともと小高い丘で、 >山頂に本丸が置かれた平山城として築かれて >いた ![]() >1531年(享禄4年)岡崎松平家を破った松平 >清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を >整備して勢力を広げたが家臣の謀反により >命を落とす(森山崩れ)。1542年(天文11年) >城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。 ![]() >当時、櫓や門の屋根も茅葺で、当地は石の >産地ながら石垣などもなく、ただ堀を掘った >その土をかきあげて、芝を植えただけの土塁が >めぐっていた。1549年(天文18年)松平広忠が >家臣の謀反によって殺害されると、岡崎城は >今川家の支城として城代が置かれ、山田景隆、 >三浦義保、糟谷備前らが城代を務めた。 ![]() >1560年(永禄3年):桶狭間の戦いで今川義元が >敗死すると、松平元康(後に家康、徳川へ改姓)は >岡崎城を取り戻し、今川家から独立する。1570年 >(元亀元年)徳川家康は本拠を浜松城に移し、 >岡崎城は子の松平信康が入った。しかし、信康は >謀反の疑いをかけられて自刃。以後、重臣の石川 >数正、本多重次らが城代を務めた ![]() >1590年(天正18年)家康が関東に移封となると、 >豊臣家臣の田中吉政が入る。家康に対する抑えの >拠点の一つとして、吉政は城を拡張し、強固な >石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備した。 >また、城下町の整備も積極的に行い、岡崎の >郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を >通るように変更し、 ![]() >岡崎の二十七曲がりといわれるクランク状の >道に整備され、現在の岡崎城の原型を造った >本多康重から3代忠利にわたる改修によって >平城となっている。この際、本丸に複合連結式 >望楼型3重3階の天守(1617年(元和3年))が >建てられた。 ![]() >存城当時の東海地方の城では3番目に数え >られる規模であったが、1873年(明治6年)の >廃城令によって廃城となった。城内の天守 >以下の建物及び土地を払い下げ、現在は一切の >建物を失い、本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居 >曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を >残すのみである ![]() >敷地は龍城神社、岡崎公園として整備された。 >1959年(昭和34年) 鉄筋コンクリート造で >天守が再建される。2007年(平成19年)材木町で、 >マンション建設に伴う発掘調査によって石垣が >見つかり、日本国内で4番目の規模の城である >ことが判明した ![]() > 三河国守護代・西郷稠頼が岡崎城を築城した >際に龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させて >天に去っていたという。以降、天守に龍神を >祀り、城の名を龍ヶ城、井戸の名を龍の井と >称したという。徳川家康が誕生した際にも >金色の龍が現れたという。 ![]() >徳川家康を祭神として東照宮を岡崎城天守に祀る。 >藩主本多忠粛により東照宮は岡崎城三の丸に遷座。 >本丸には本多忠勝を祭神(映世大明神)とする >映世神社が創建、1876年(明治9年)に東照宮を >岡崎城本丸に遷座、映世神社と合祀して龍城神社に >改称する。社殿が造営される。 ![]() >1964年(昭和39年):社殿が再建される。 >このさいに天神地祇、戦没者を合祀した。 といった訳で、ウィキペディアの記事によって 徳川家康と、岡崎城についてコピペをさせて いただきました ![]() 当時は 出産に際して、えなと呼ばれるへその 緒や胎盤などを埋めて祀ることで、その子の 健康を願ったとの事から、家康公のえなを 埋めたと伝えられる塚。もとは本丸南に あったものを、今の場所に移したそうだ ![]() 岡崎城内で生まれた竹千代(徳川家康)の 産湯に、この東照公産湯の井戸の水が 用いられたそうだ ![]() 現在でもこの井戸の水を汲み上げ、浄水設備を 通したあと触れることができるように、井戸の すく隣で常時流れている ![]() こっちは二の丸御殿の井戸 ![]() その説明です↑ ![]() 東隅櫓について、ウィキペディアによると >2010年(平成22年)3月、東隅櫓が再建 >された。望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階 >建で、入り母屋造りの屋根は、岡崎藩主を >務めた本多氏の家紋立ち葵が刻まれた本瓦 >葺き。壁は白漆喰塗り。 ![]() >高さ約9.4メートルで、かつて東曲輪だった >岡崎公園駐車場の南東角に位置する。1781年 >(天明元年)の「岡崎城絵図」を基本資料と >しているが、東隅櫓の図面は現存しなかった >ため、愛媛県松山市に現存する同時代の松山城の >野原櫓などの形式を参考にして、江戸時代の >工法を忠実に再現し建設した ![]() >城内で発掘された石材を使い、空積みの石垣も >築いた。隣接して同時に整備した長さ約45メートルの >城壁と合わせ、総工費は約1億円。年中無休で >内部を公開している。 ![]() やっぱ当時の工法で復元をしているので、見応え あるなぁ~。ところで岡崎城があるあたりの地名 だが、愛知県岡崎市康生町(こうせいちょう)と いって、江戸期は岡崎城の郭内であった ![]() 1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、岡崎 康生町となったが、やはり家康の生誕地であった 為に名付けられたらしい。 ![]() 最後に、岡崎城のある岡崎公園は日本さくら 名所100選に選ばれているそうなので、来春 にはお花見に行けたらいいな ![]() 8月にビル越しに岡崎の花火を見た広大な 広場はここでした。何せ家康公のお城だけ あり中身が濃いので、後半に続きます。次回 姫も登場します ![]() 平成31年6月4日に愛知県岡崎市で撮影 ![]() にほんブログ村 ![]() と お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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