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殿上人日記

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2019年08月29日
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カテゴリ:愛知、三重の旅


ここ最近になって夏の終わりを思わせる
ようなお天気で、夜の涼しさに閉口して
長袖のパジャマを持ち出してきましたし
街では栗きんとんの販売も始まりました




さてさて前回に続いての「岡崎城」ですが
前にちゃんと内部も見学をしてました。が
忘れてました。復興天守は特徴がなくって
そんな訳で、見学した時の日記もブログで
紹介してましたので、松平郷などと共に
↓リンクからご覧くださいませ




2010年05月17日「松平! 将軍ではなく、情熱のミューズにひかれる」

2010年05月14日「飛騨の三大桜と、ジンヤ」

2007年11月03日「金龍昇天、三河の家康の城。」




ではでは前回の続き、岡崎城の紹介をします
空堀にかかった石橋もまた、見た目もかっこ
いいですね。愛知県よりも名古屋の方が有名
みたいですが、名古屋のあるのは尾張で織田
信長や、豊臣秀吉の故郷でもあります




徳川家康が生まれた岡崎があるのは、愛知県
東部にあたる「三河(みかわ)」で、尾張と
違う国でしたから人の気質も、文化も違って
いたりもします。更には岡崎などの西三河と
豊橋などの東三河といったように分かれますし
奥三河という岐阜県寄りの区分もされます




尾張の人は見栄っ張りで利に聡い、短気な
商人ぽい気質なら、三河は辛抱強く堅実で
おっとり頑固な農民気質って、信長&秀吉と
家康の性格そのまんまのような気も。この
石像はしかみ像といいます




浜松の三方ヶ原での戦いで武田の大軍に大敗し
多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れる
ことが無いよう「徳川家康三方ヶ原戦役画像」を
描かせたのですが、それを元にした石像です




「われ志を得ざるとき忍耐この二字を守れり。
われ志を得んとするとき大胆不敵この四字を
守れり。 われ志を得てのち油断大敵この四字を
守れり。」神君だけあって家康が残した言葉は
どれもが心に響きそうである




家康は能が好きだったそうで、二の丸があった
場所に建てられた本格的な屋外能楽堂もあった

家康は「宝の中の宝といふは人材にしくはなし」
との言葉も残しているが




信長などは戦いで破った相手の武将などは容赦
なく殺してしまうが、家康は敵方であった武将
らも助けて、自分の配下としたそうだ。流石に
人材こそが宝。出自の悪い秀吉は信頼のおける
家臣を作るのに大変だったが、家康には苦労を
共にした三河家臣団がいたから、天下が盤石と
なったのかも




若かりし頃の家康、「松平元康」の像だそうだが
彼を支えてきたのが「三河武士」たちで、三河衆
とも呼んでおり、三河国時よりの家康の家臣らで
忠誠心が強く、江戸幕府の創業は彼らの貢献なし
では出来なかった




彼らは譜代大名となり徳川宗家を支えていく訳で
あるが、中でも有名なのが本多忠勝。平八郎かも
しれない。彼は徳川四天王のひとりで、信長には
「花も実も兼ね備えた武将」、秀吉に「日本第一
古今独歩の勇士」と称賛もされた戦国武将だ




この像では鹿角兜と甲冑で身を固め、名槍蜻蛉切を
携えています。その奥には家康の出生から天下統一
までと、それを支えた三河武士達をわかりやすく
紹介してくれる「三河武士のやかた家康館」です




勇壮果敢な平八郎は、徳川秀吉の懐刀として
映画やドラマなどでも登場するが、私が一番
印象的なのは大河「真田丸」の藤岡弘、さん
かなぁ~。生涯において参加した合戦は大小
合わせて57回に及んだそうである




ところが、どの戦いにおいてもかすり傷一つ
負わなかったそうである。その名采配ぶりを
配下のものらは「忠勝さまの指揮で戦うと、
背中に盾を背負っているようなものだ」と
称えたそうだ




本多忠勝(平八郎)がなぜ、岡崎城でたくさん
紹介されているというと、江戸時代の後半には
彼の子孫がここの城主であった事と、出生地が
岡崎でもあったので。他の市町村であれば学者
芸能人などがならぶ出身者も、流石に家康公の
おひざ元だけに




徳川家康、本多忠勝の他に松平氏、細川氏
大久保氏、鳥居氏、板倉氏、酒井氏、渡辺氏
青山氏、内藤氏、水野氏、蜂屋氏、大須賀氏
植村氏といった名だたる武将、大名などや
あの服部正成(服部半蔵)も、岡崎出身だ




顔出しパネルの本多忠勝公の横にいる
のは娘の稲姫(小松姫)で、真田丸では
真田幸村の兄の信之の正室として登場を
したので、覚えている方もおいでいなる
かもしれない




この婚姻は徳川方と真田氏を結ぶものとして
家康の養女として信之に嫁いだそうだけど
こんな逸話も残っている。ウィキペディアより

>小松姫が家康の養女であったとする話の中に
>婿選びの逸話がある。家康が若い武将達を
>列座させて小松姫の相手を選ばせたところ




>家康を前にして委縮している中で、小松姫が
>平伏している一人一人の髻を掴んで面を上げ
>させて吟味していたところ、髻に手を差し
>伸べられた瞬間に信之は叱咤して、鉄扇で
>小松姫の顔を打った。小松姫はこの気骨に
>感動して信之を選んだといった伝承がある




そんな勝気な稲姫がのんびりと、令和の
世の岡崎城で散策をされていた。武将隊の
メンバーは、徳川家康の他に徳川四天王の
酒井忠次、榊原康政、井伊直政、本多忠勝と
稲姫で、交代で岡崎公園で記念撮影や案内
などをしており、週末には演舞もあるとか




酒井忠次は徳川四天王、徳川十六神将のともに
筆頭で、家康第一の功臣とされている。家康の
父の松平広忠に仕え、竹千代(家康)が駿府へ
今川の人質とされた時には、最高齢(23歳)で
同行して以来、家康の配下として主な戦いには
全て参加をしている




大河「おんな城主直虎」で、イケイケな若武者で
あったのが井伊直政で、最初は外様であったのが
江戸期には譜代大名の筆頭となった為、三河衆に
妬まれた事も。徳川四天王。徳川十六神将、徳川
三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた
功臣であった




武田氏の旧臣約120人が配属をされた際に、武田の
赤備えの将であった山県昌景の意志を継ぐという
意味合いもあり、直政は兜や鎧をはじめ装備を赤色
で統一させた。赤色だと目立つので、戦さの最中に
どこに自分の部下がいるのか直ぐわかるからだとか



徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑に数えられる
榊原康政は、13歳の時に松平元康(家康)の小姓と
なり、三河一向一揆鎮圧戦では初陣を果たし、家康
から武功を賞されて「康」の字を与えられた。武勇
では本多忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力
では、忠勝に勝り井伊直政に匹敵するとされている




ともなると他の武将も気になるので、徳川十六神将
なども名を挙げてみると・・・酒井忠次、本多忠勝
榊原康政、井伊直政の他には、米津常春、高木清秀
内藤正成、大久保忠世、大久保忠佐、渡辺守綱、
蜂屋貞次(または植村家存)、鳥居元忠、鳥居忠広
平岩親吉、服部正成、松平康忠(または松平家忠)




まっ、ようわかりませんですが、家康一人で
徳川幕府を樹立したわけでもなく、彼を支えた
沢山の人たちの手で勝ち得た勝利と言う訳で
早朝に、大河ドラマ「葵 徳川三代」の再放送
ご覧になっている方は、あ~いたいた、とか
なるのかな




なんかすごいです。既に20年近くも前の
作品になるんですが、特に女性陣が映画
みたいな重厚感あって。山田五十鈴とか
岩下志麻、小川真由美、草笛光子という
ベテラン陣が品があるというか。圧倒を
されます。江守徹の三成はちょっとジジ
むさいような・・・(こそっと)




浄瑠璃の語源ともなった御伽草子の「浄瑠璃姫
物語」では三河国矢矧(今の岡崎)の長者の娘
浄瑠璃姫が、奥州へ向かう途中の牛若丸と恋に
落ち、叶わぬ恋に悲観をして菅生川(乙川)に
身投げをしたという話ですが、岡崎城の脇には
ひっそりと浄瑠璃姫の供養塔がありましたよ




岡崎の出身で世界的な地理学者の志賀重昂氏が
テキサス独立戦争のアラモの戦いと、戦国期の
三州長篠城の戦いが似ていると、感銘を受けて
岡崎と長篠の石を使っ、大正3(1914)年
サンアントニオ市アラモ砦史跡の一角と、ここ
岡崎公園にアラモの碑を建立したそうです




なんでもアラモの砦から援兵を求めて、友軍の
下に走った青年ボナムが、武田の大軍に取り
囲まれている状況下の長篠城を、脱出をして
岡崎城の家康に危急を知らせた鳥居強右衛門の
両者の「強い使命感」に、東西の別はないと
感動して建碑を思いたったのだとか




鳥居強右衛門は夜陰に乗じ城の下水口から川を
潜って武田軍の包囲網を突破し、無事に岡崎城に
たどり着いて援軍の派遣を要請をした。織田の
援軍も岡崎城に到着しており、連合軍は長篠へ
向けて出発する手筈となっており、強右衛門は
この朗報を長篠城の味方へ伝えようと戻る途中で
武田軍に捕らえられてしまった




取り調べで、織田と徳川の援軍が長篠に向かう
事を知った勝頼は、援軍は来ないから諦めて
城を明け渡すよう、偽の情報を伝えるように
命じた。長篠城の見通しのきく場所へと引き
立てられた強右衛門は、間もなく援軍が来る
から持ちこたえるよう城に向かって叫んだので
勝頼は部下に命じ強右衛門を殺してしまった




ところが強右衛門の報告のおかげで、援軍が
近いと知った長篠城の城兵らは、強右衛門の
死を無駄にしてはいけないと奮い立ち、援軍が
到着するまで武田軍の攻撃から城を守り通す
事が出来た。信長は、強右衛門の最期を知って
その忠義心に報いる為、立派な墓を建立させた
そうである




「忠義護邦家の碑」の忠義は、名のごとくで
あるが、邦家とは国家の事だそうだ。日露戦争
直後の明治39(1906)年に建立されたそうで
山県有朋が書したとの事だ




「鎮魂の錨」は、今までの海戦のものである
とは思うけど、どういったものなのか詳しくは
わからなかった。城は戦いの為のものであって
そこでは沢山の兵士らの命も奪われてもしまう
やっぱり、戦いのない平和な国であればよいの
だけど




小瀧喜七郎は、かつて岡崎藩士であった家に
生まれ、日清・日露戦争に従軍をした。明治
41年に岡崎町役場の書記となり、行政面で
手腕を発揮し、昭和8年には第四代岡崎市長に
就任をした。助役時代より岡崎公園の修築や
改修に力を入れた為、公園助役、公園市長の
異名をとった人物




竹下景子さんは尾張名古屋の出身ですが、NHK
朝ドラの「純情きらり」で主人公の母親役を演じ
他の演者と共に手形が、舞台となった岡崎に今も
残されている




そんなこんなの岡崎城と、岡崎公園はいかが
でしたでしょうか。今回の訪問ではうかつにも
龍神神社の境内にあった竜神の井戸を見て
こなかったのが残念です。またリベンジします

でも家康が能を舞うからくり人形は、見る事が
出来ました




そして今は使う人も殆どいなくなったであろう
お城の公衆電話は今も健在です




自動販売機も葵の御紋。家康仕様ですし
お城の真横を通る国道1号の歩道橋にも
葵の御紋がきらびやかに




徳川家康が江戸へと下ると、豊臣方の田中
吉政が岡崎城に入城し、城下の整備を行い
矢作川に初めて橋をかけ、東海道を城下へ
引き入れた。外敵から城を守るように道を
幾度も曲げさせた二十七曲がりが作られた




         令和元年6月4日に愛知県岡崎市で撮影

       ブログの日記更新を先にさせていただきましたが
       皆さんのブログには、本日&明日中に伺わさせて
       いただきます

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最終更新日  2019年08月30日 16時25分25秒
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