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殿上人日記

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2020年02月01日
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カテゴリ:滋賀、奈良の旅


と​いった訳で、11月14日に姉と出かけた
日帰りのバス旅行。早朝に名古屋を出発し
興福寺、若草山の麓で昼食、聖武天皇陵を
まわり、次にやってきたのは奈良と言えば
東大寺



そしてそびえるのは南大門だ。大華厳寺の
扁額は横幅4.5メートル(15尺)、高さ
1.65メートル(5.5尺)、重さ500kgの
木曽産の総檜材で、文字は聖武天皇の写経
から集字したものだそうです




天平創建時ものは平安時代に大風で倒壊し
鎌倉時代に、東大寺を復興した重源上人が
再建。正治元(1199)年に上棟し、建仁
3(1203)年に、門内に安置する仁王像と
ともに竣工した。団体客も仁王を見上げて
いた




入母屋造、五間三戸二重門で、屋根裏まで
達する大円柱18本は、21メートルにも
及んでおり、門の高さは基壇上で25.46
メートルと日本で最大の山門であるそうだ
さて仁王さんとは、仏教の護法善神(守護神)
である天部の一つである金剛力士の事だ




サンスクリットでは「ヴァジュラパーニ」と
いい仏敵を退散させる武器である金剛杵を持つ
ものを意味しており、開口の阿形(あぎょう)
像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像を一対
とし寺院の表門などに安置されている




東大寺南大門の金剛力士(仁王)像は、造高
8メートルもあり、像内の納入文書から運慶が
総指揮にあたり、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)
らが、小仏師多数を率いて、約2か月で造立を
した事がわかった




それにしても沢山の人だ。海外からのお客さんも
多くを占め、日本を代表する観光地の一つだろう
ウィキペディアで東大寺を紹介させていただくと

>東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町に
>ある華厳宗大本山の寺院。




>金光明四天王護国之寺(きんこうみょう
>してんのうごこくのてら)ともいい、奈良
>時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして
>建立した寺である。「奈良の大仏」として
>知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊
>とし、開山(初代別当)は良弁である




>奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、
>東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を
>含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の
>兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は
>台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残す
>のみであり、




>また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭
>(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、
>間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の
>寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を
>集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた
>寺院であり、




>聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立
>させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と
>位置付けされた。東大寺は1998年12月に
>古都奈良の文化財の一部として、ユネスコ
>より世界遺産に登録されている

今回は大仏を見に来たわけではないので
>外側から覗いただけです




>一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年
>(728年)第45代の天皇である聖武天皇と
>光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提の
>ため、若草山麓に「山房」を設け、9人の
>僧を住まわせたことが知られ、これが
>金鐘寺の前身と見られる。




>金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が
>存在したことが記録から知られ、このうち
>羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空
>羂索観音)を指すと見られる。天平13(741)年
>には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて
>翌天平14(742)年、金鐘寺は大和国の国分寺と
>定められ、寺名は金光明寺と改められた。




>大仏の鋳造が始まったのは天平19(747)年で
>このころから「東大寺」の寺号が用いられる
>ようになったと思われる。(中略)東大寺では
>大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、
>菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。




大仏殿の裏手にはかつて講堂があった。天平勝宝
8(756)年頃に完成をしたといい、本尊は千手
観音。脇侍としては虚空菩薩、地蔵菩薩があったが
平重衡らによる南都焼き討ちなど、室町期に至る
まで3度の焼失。3度目の焼失以降は再建される
事もなく、今は礎石が残されるばかりだ




溢れるばかりの観光客の行きかう大仏殿
付近よりも、こういった裏手の方がのんびり
出来て好きです。姉は仏像が好きなので
三月堂も好きですが、今日は時間がないので
行けません。またの機会に




そうこうしている間に正倉院に到着しました
柵のところまで行く事が出来ます。またまた
ウィキペディアで正倉院について説明すると

>756年(天平勝宝8歳)6月21日、光明皇太后は
>夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇
>遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の
>廬舎那仏(大仏)に奉献したのが始まりである。




>光明皇太后はその後も3度にわたって自身や聖武
>天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品は
>正倉院に納められた。献納品目録である献物帳も
>正倉院に保管されている。献物帳は五巻からなり
>それぞれ『国家珍宝帳』『種々薬帳』『屛風花氈
>等帳』『大小王真跡帳』『藤原公真跡屛風帳』と
>通称されている




>正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)
>南倉(なんそう)に区分される。北倉は主に聖武天皇
>光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の
>儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収め
>られていた。また、950(天暦4)年、東大寺羂索院の
>の双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められて
>いた物品が正倉院南倉に移されている




>南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会
>(かいげんえ)に使用された物品なども納められて
>おり、1185(文治元)年の後白河法皇による大仏
>再興の開眼会に宝物の仏具類が用いられた。その
>ほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が
>倉から取り出されることが度々あり、返納の際に
>違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在
>場所はかなり移動している。




>「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけで
>はなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に
>応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。
>刀剣類などは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の
>際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは
>別の刀剣が代わりに返納されている。




>建立時期は不明だが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の
>品を大仏に奉献した756年(天平勝宝8歳)前後とみる
>のが通説である。759年(天平宝字3年)以降、宝物
>出納の記録が残っていることから、この年までに建立
>されていたことがわかる。当初の正倉院の建物構成に
>ついてはわかっておらず、記録によれば、平安末期
>には現存する宝庫1棟を残すのみであったらしい。




>校倉造の宝庫は長年、宝物を守ってきたが、1952
>(昭和27)年に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962
>(昭和37)年には同じく鉄筋コンクリート造の西
>宝庫が完成し、翌1963(昭和38)年、宝物類は
>そちらへ移された。現在、宝物の大部分は西宝庫に
>収納、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納
>スペースのない、大量の染織品が収納されている
>現在、勅封はこの宝庫に施されている。




>「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産として
>登録されるにあたり、当該文化財が所在国の法律に
>よって保護の対象となっていることが条件である
>ことから、正倉院の建物も正倉院正倉として1997年
>(平成9年)5月19日、文化財保護法による国宝に
>指定された




>管理する宮内庁が整理済みの宝物だけで9000点に
>上るが、このうち正倉院展で公開される宝物の品目は
>毎年変更され約70点のみである。よって代表的な
>宝物を見るには複数年の見学が必要になる。学芸員が
>手作業で点検と陳列を慎重に行うがそれに前後約40日の
>時間を必要とするため、開催期間は約2週間程度と短い。




>なお、帝室博物館の流れを汲む東京国立博物館に
>於いても5年に1回、正倉院展の時期に行われる
>展覧会で同院の収蔵物が展示される

東京で5年に一度、正倉院展をやっていた事は知ら
なかった。今年はどちらも見れて良かったが




かなり前にも正倉院展の時に、正倉院を
見学させて貰ったが、この銀杏がとても
綺麗だったのを覚えている




大仏殿の金色に輝く鴟尾(しび)が見えてきた。
>鴟尾とは、瓦葺屋根の大棟の両端につけられる
>飾りの一種である。訓読みではとびのおと読む。
>沓(くつ)に似ていることから沓形(くつがた)
>とも呼ばれる。




>寺院・仏殿などによく用いられる。後漢以降、
>中国では大棟の両端を強く反り上げる建築様式が
>見られ、これが中国などの大陸で変化して3世紀
>から5世紀頃に鴟尾となったと考えられている。
>唐時代末には鴟尾は魚の形、鯱(海に住み、よく
>雨を降らすインドの空想の魚)の形等へと変化
>していった




>瓦の伝来に伴い、飛鳥時代に大陸から日本へ伝え
>られたと考えられている。火除けのまじないに
>したといわれている。 ウィキペディアより転載

という訳でポストもこんな感じです。いよいよ次は
奈良国立博物館での正倉院展の見学です。続く!




          2019年11月14日に奈良市で撮影

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最終更新日  2020年02月01日 08時56分17秒
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