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 殿上人日記

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2020年04月22日
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カテゴリ:神奈川の旅


ちょっぴり横道にそれましたが、今年
1月に娘と出かけた東京ディズニーと
東京、横浜2泊3日の旅行の続きでして
第5回になります。旅は最終日3日目
朝です




この写真にも新型コロナ関連の近況
じみた文章を載せてましたが、アップ
しないうちに内容があわなくなって
ボツにしました。で、苗木城の写真を
使った日記にしちゃいました




この1月の旅行のおさらいをしますと
東京ディズニーランドの企業貸し切り
ナイトのペア招待が当たったので、娘と
出かけた訳でして。初日は高速バスで
新宿へ出て、渋谷で新しい高層ビルを
見物して、舞浜の宿泊ホテルで休憩後




東京ディズニーランドの貸し切りナイトを
夜遅くまで楽しみ、次の日は雪降る中を
上野の東京国立博物館で高御座と、出雲と
大和の古代の宝物を見学。昼過ぎに到着
した横浜では中華を食べて、雨の横浜を
夜まで満喫をして、最終日を迎えました




代官坂の途中にあるカフェでモーニングを
食べ、港を見える公園や外人墓地の見学で
明治期に海を渡って来日をし、文明開化の
担い手となった異国の人たちに思いを馳せ
次にやってきたのは


        

彼らが住まいとした異人館です。ここと同じ
ように明治期に沢山の異国の人がいた神戸の
異人館はどこも有料ですけど、横浜の場合は
市の所有となっている7つの異人館が無料で
公開をしているので、時間の許す限り訪問を
させて貰っている




横浜の山手地区にある7つの異人館を紹介を
すると、山手111番館、横浜市イギリス館、
山手234番館、 エリスマン邸、外交官の家、
ベーリック・ホール、ブラフ18番館である




その詳しい紹介などは、↓リンクに写真付きで
あるので興味のある方はご覧下さい。注意・今は
たぶん臨時休館中だと思われます

」「山手西洋館公式サイト」公益財団法人横浜市緑の協会




最初に紹介をするのは、現存をしている戦前の
山手の異人館のでは、最大規模の建物であって
意匠が凝っていて見応えもある「ベーリック・
ホール」で、私の一番好きな異人館だ




べーリック・ホールですが、イギリス人貿易商の
バートラム・ロバート・ベリックのの邸宅として
昭和5(1930)年に建てられたもので、設計者の
アメリカ人建築家J.H.モーガンは、山手111番館や
山手聖公会、根岸競馬場など数多くの建築物を
残している




ニューヨーク生まれのJ.H.モーガンは、若い頃から
建築を志して活躍をしていたが、フラー社の一員と
して、近代化を進める大正期の日本へ招聘された
のは51才の時であった。最初は2年のつもりで
家族を残して来日をし、丸ビルや、日本郵船ビル
などの建築にも携わったそうだ




フラー社は関東大震災後に日本から撤退するが
J.H.モーガンは日本に残り、個人事務所を開き
様々な建物を残し、1937(昭和12)年に
横浜で逝去をしたそうだが、そんな彼を支えた
のが、後添いとなった日本女性の存在だ




来日後ほどなくして、東京ステーションホテルで
モーガンは、英語の本を読む一人の女性と出会い
公私ともに良きパートナーとなったそうで、彼女の
存在も、日本に骨を埋める事となった要因の一つ
であろう




さてさて、実際にこの邸宅に住んでいたという
B.R.ベリックであるが、ロンドン出身で1898年
25歳で来日し、事業を順調に拡大した事から
東京の駐日フィンランド大使館が、彼の経歴に
注目し、フィンランド領事に就任




この邸宅で執務を行っていたそうだ。しかし
第二次世界大戦が近付いた事から、カナダの
バンクーバーに家族で移住をして、1952年に
カナダで永眠したそうである




彼の没後は、カトリック・マリア会に寄贈され
同会の運営するインターナショナル・スクールの
寄宿舎として使用され、2000年に同校が閉校と
なったのちには横浜市が敷地を取得し、建物も
市に寄贈をされた。横浜市認定歴史的建造物に
選定されている




約600坪の敷地に建つべーリック・ホールは
スパニッシュスタイルを基調としており、外観は
玄関の3連アーチや、クワットレフォイルと
呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など、多彩な
装飾が施されていて、とても素敵ですよ




運よく出かけた次の日から、改修工事の為に
休館になるようでした。今もまた新型コロナ
感染拡大防止で、休館をされているようです




しかし運悪く、お隣の「エリスマン邸」は
改修工事でお休みになっていました。生糸
貿易商社の横浜支配人格として活躍をした
スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の
邸宅で




大正末期に来日し、近代建築の父といわれる
チェコ人の建築家アントニン・レーモンドの
設計で建てられました。フランク・ロイド・
ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に
来日し、その後日本に留まって、モダニズム
建築の作品を多く残し、。日本人建築家に
大きな影響を与えたそうです




次に、見学をしたのは「山手234番館」で
関東大震災前に横浜に7650人いた外国人は
震災の翌年には2156人まで減少した為に
関東大震災の復興事業の一として、横浜を
離れた外国人に戻ってもらう為に、昭和2
(1927)年頃に建設された外国人向けの
共同住宅(アパートメントハウス)だ




設計者は朝香吉蔵で、4つの同一形式の
住戸が中央の玄関ポーチを挟んで、左右
対称に向かい合い、上下に重なっていた
そうで、上げ下げ窓や鎧戸、煙突なども
簡素な仕様で採用され、震災後の洋風
住宅の意匠の典型的な建物であった




第2次世界大戦後に米軍による接収などを
経て、昭和50年代頃までアパートメントと
して使用されていたが、平成元(1989)年
横浜市が、歴史的景観の保全を目的に取得
保全改修工事後に、




平成11(1999)年から一般公開がされて
いる。現在は、1階は再現をされた居間を
中心にして、山手地区の洋館などのパネルが
展示されており、2階は貸し出しスペースと
なっている




建物だけでなく、このような当時の暮らしを
思わせる文物が、展示されているのも嬉しい
すぐお隣には、同じく朝香吉蔵の設計した
「えの木てい(旧 山手89-6番館)」があるが
写真を撮り忘れてしまった




1909年に建てられた「山手資料館」は、横浜に
現存をする木造西洋館としては、最古のもので
牧場主として財を成した中澤兼吉氏の和洋併設
住宅のうち洋館部分が移設されたもので、館内
では横浜開港当時の資料が展示されている




こちら昭和42年(1967年)年に、明治100年を
記念して建てられた「山手十番館」で、1階は
カフェ、1階はランチ、ディナーを楽しめる
フレンチレストランとなっているそうだ




べーリック・ホールの設計をしたJ・H・モーガンが
手がけたのが横浜山手聖公会で、 関東大震災で崩壊
した聖堂を建て直す形で、1931年に現在の礼拝堂が
竣工したが、第二次世界大戦中の横浜大空襲により
内部を焼失した




1947年に聖堂が再建されて、1990年には
横浜市認定歴史的建造物に認定をされたが
今度は2005年1月に放火と思われる火災に
より内部を全焼し、11月に修復がされた
ものだそうだ




山の手からの港の風景も、長い年月が
過ぎるうちに随分と変わった事だろう
10年、100年・・・随分と長いようで
実は、あっという間なのかもしれない
朝のテレビで(ここ数年に放映された)
高齢者のすごい人生が特集していた




太宰治が人間失格を書きあげたお宅の娘さん
とか、忠犬ハチ公にエサをやった事のある
渋谷の娘さんたちが、つい昨日の事のように
若き日の思い出を語っていた。人と同じ
ように、横浜の街も様々な人の営みを見て
いた事だろう




次に紹介をするのは「横浜市イギリス館」で
昭和12(1937)年に、上海の大英工部総署の
設計により、英国総領事公邸として建てられ
ました。広い敷地と大きな建物は東アジアに
おける領事公邸の中でも、上位に格付けられて
いたそうですよ




主屋の1階の南側は西からサンポーチ、客間
食堂が並び、広々としたテラスは芝生の庭に
つながってます。2階には寝室や化粧室があり
広い窓からは庭や港の眺望が楽しめ、地下には
ワインセラーもあったそうですよ




玄関脇にはめ込まれた王冠入りの銘版(ジョージ
Ⅵ世の時代)や、正面脇の銅板が、旧英国総領事
公邸であった由緒を示していますが、写真を撮って
いなかったようだし


         

昭和44(1969)年に横浜市が取得をし、1階の
ホールはコンサートに、2階の集会室は会議等に
利用をされています。更に平成14(2002)年より
2階の展示室と、復元をされた寝室を一般公開
してます




当時の上海の大英工部総署の設計者が、船窓の
特徴である丸窓を、モチーフに取り入れたと
思われ、南側(庭園側)の外観は、左右対称の
丸窓が特徴的だそうだ




それにしても、どんより空の初日と
雪や雨に見舞われた寒い前日に比べ
最終日は、とてもよく晴れた一日と
なり、雲一つない青い空のお陰で
写真も映えるというものだ




そして横浜市イギリス館の南側にあるのが
「山手111番館」で、ベーリック・ホールと
同じJ.H.モーガンによる設計で、彼の代表作の
一つとなっている。地上2階、地下1階建てで
地上部分は木造、地下は鉄筋コンクリートと
いう構造




スタッコ仕上げの外壁と赤い瓦で、スパニッシュ
スタイルでまとめられている。現在は港の見える
丘公園の施設として一般公開がされているが、
建物保護の為、2階の回廊の公開は月1回程度に
限られており、地下1階はカフェが営業している




建物を注文したのは、米国人の両替商T・M
ラフィンであるが、彼が乗船していた船に
修理の必要が生じて、予定に無かった横浜に
立ち寄る事になった。修理を待つ間に箱根へ
出かけたラフィンは、そこで出会ったミヨと
大恋愛の末に結婚し、横浜に住む事にした




ラフィン夫妻は8人もの子供に恵まれ、この
家は結婚する長男の為、1926(大正15)年に
建てられたものだ。T・Mラフィンは1931
(昭和6)年に横浜で亡くなり、山手の外国人
墓地に埋葬されたそうである




ここに実際に住んでいた息子のJ.Eラフティンは
大正12(1923)年頃にシベリア生まれの女性と
結婚するが、太平洋戦争が始まる昭和16(1941)
年頃に妻のマリアを日本に置いたままアメリカへ
向けて出国したようである。妻の方は昭和28年に
離日したことが記録されているそうだ




その後のJ.Eラフティン夫妻は、カリフォルニア州
グラナダヒルズで亡くなって、地区の墓地に埋葬
されているそうだ。ラフィン家から離れたた後に
所有者は数度も変わったものの、良い保存状態の
ままで、1996年に横浜市の所有となった




改修後の1999年より、一般公開をされており
1999年11月には、横浜市の指定有形文化財と
なった。蝶々夫人のように悲劇的な女性もいた
かもしれないが、日本女性を愛した事で日本で
とどまり人生を全うした異国男性もいたんだな




最近見たなんでも鑑定団では、クーデンホーフ
光子の直筆の書。駐日代理大使として東京に赴任
した若き青年貴族に見初められ、伯爵夫人として
海を渡った女性だ。東京府(当時)に届出された
初の正式な国際結婚と言われている。ちょい話が
逸れました




1885(明治18)年に建てられた「ゲーテ座」は
「陽気な(Gaiety)」という英語が由来し、外国人
居留地で娯楽を望む外国人のために、演劇から
オペラ、音楽、手品、バレエまで演じられていた
そうだ。かつての劇場跡地には岩崎学園が当時の
面影を残した「岩崎博物館」を建てたそうだ




桜木町駅を起点にして、横浜の観光地を周遊する
「あかいくつ」号のCコースは、明治期以降の近代
建築や港などに代表される古き良きヨコハマを巡る
ことが出来る。ではでは。まだまだ横浜の旅は続く




           2020年1月19日に横浜で撮影

      新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止の為、多くの施設が
      臨時休館中だと思われます。自粛の解除後に横浜にいらして下さい

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最終更新日  2020年05月07日 08時20分17秒
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