殿上人日記

2020/05/07(木)08:20

冬の薔薇も咲く港を望む異人館と、発祥の地かずかず

神奈川の旅(19)

​ ​ いよいよ、前代未聞のゴールデンウィークが 始まりますね​。2月にはまだ危機感がなかった 事もあり、娘と高速バスを使い金沢に行こうと ホテルの予約をしたのですが、3月半ばには キャンセルをしました 沖縄県知事が、大型連休中に本土からの 飛行機の予約が6万人もあるので、来ないで 欲しいと訴えているそうだ。とは言っても 減便をした飛行機の予約が、キャンセルを されていない分の数も入っているらしいが パチンコ店も自粛をお願いしているのに 営業して、そこに沢山の人が押しかけて いるそうだし。ニュースでパチンコ店に きたおっさんにマイクを向けると、家に いると暇だし。やってなければ来ないよ って答えてた 田舎の河川敷では、都会の若者が自主規制 でしょ。禁止じゃないしと悪びれず答えて いた。そういった若者らが彼らが帰った後 には、河川敷に使用した炭がそのまま放置 そんなんだから千葉県とかでは、見頃だった チューリップの花を、切り取らなきゃいけ なかったんだし 九州では自粛要請にもかかわらず、営業を 続けていた夜の社交場で、クラスター発生 その人たちが新型コロナで苦しむだけなら まだしも、医療崩壊が起きたりで他の患者 さんが満足な医療を受けられなくなる危険 だってある 首都圏では、幾人もの人が満足な治療を 受ける事もなく新型コロナによって命を 失っている。海外では簡単にできる検査も 日本ではままならず。医療崩壊を招かない 為だという話もあるけども やはり検査を受け、たい人はすぐに検査が できるようにした方が良いのではないかと 重症化が懸念される患者は早くから治療を 受けれるし。軽症な人も感染をしていると 知れば、周囲の人にうつしてしまうような 行動はしなくなるだろうし 今朝のニュースでは単身赴任で、世田谷区に 住んでいた男性が、体調が悪くて相談電話に 何度もかけてもつながらず、医者からやっと 依頼し検査できたが、判明するまで数日かかる そうで、それを待たずして自宅待機中に亡く なっていたそうだ。お気の毒でならない・・・ 写真の方ですが、1月下旬に娘と出かけた 首都圏への旅での、横浜最終日の続きです 戦前に外国人が住んでいた洋館を横浜市が 無料で公開をしているので、見学をさせて 貰いました。ここは「外交官の家」です ニューヨーク総領事や、トルコ特命全権大使 などを歴任をした、明治政府の外交官である 内田定槌(うちださだつち)の邸宅として 明治43(1910)年に、東京渋谷の南平台に 建てられたんだそうですよ 彼は豊前国小倉(福岡県北九州市)の出身で 東京帝国大学法科大学を卒業をしたそうで 大河ドラマ「いだてん」で、駐スウェーデン 公使として登場した人物なんだとか。建物の 設計は、聖公会伝道局から築地立教学校へと 派遣され来日をしたJ.M.ガーディナーです 彼は立教大学校長を退任後に本格的に建築家 としての人生を歩み始めたそうで、この建物 同様に、明治村に移設されている京都聖ヨハネ 教会教会堂や、函館遺愛学院本館などが国の 重要文化財に指定をされている 建物は木造2階建てで塔屋がついており、天然 スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁がされ 華やかな装飾が特徴であるアメリカン・ヴィク トリアンの影響を色濃く残している。外交官の 家は「山手イタリア山庭園」にあるが、ここは 明治期にイタリア領事館が置かれたことから イタリア山と呼ばれていた地域に、幾何学的に 水路や花壇を配したイタリア式庭園で、花壇 にはバラの季節には姉妹都市であるリヨン市 から贈られたプレステージ・ドゥ・リヨンが 咲いているそうですよ 「山手イタリア山庭園」には、洋館がもう一軒 「ブラフ18番館」も移築復元をされたており こちらは関東大震災後に、山手町45番地に建て られたオーストラリアの貿易商バウデンの住宅 でした 戦後になり天主公教横浜地区(現カトリック横浜 司教区)の所有となって、カトリック山手教会の 司祭館として使用された後に、横浜市が部材の 寄贈を受けて、山手イタリア山庭園内に移築復元 したものです 建物の設計や施工者といった詳しい事はわかって いませんが震災による倒壊と火災を免れた住宅の 一部が、部材として利用されている事が解体時の 調査でわかりました 木造2階建て、1・2階とも中廊下型の平面構成で 白い壁にフランス瓦の屋根、4つの暖炉を1つに まとめた合理的な煙突がたっています。その他 ベイウィンドウ、上げ下げ窓と鎧戸、バルコニー サンルームといった洋風住宅の意匠がされてます ↑内装は、こちらをご覧ください 人が実際に住んでいないからこそ、こういった 隙のない、スッキリとした家になるんだと思う やっぱり見回してみると、モノが多すぎるん だよね。京都のお寺や、こじゃれたホテルとか 断捨離に努めるか・・・ 収納も大容量で用意したのに、新築4年目にして 無駄なものばかりを既にため込んでしまってるし 捨てられなかったものも、4年間もそのままでは もはやゴミだし。ゴールデンウィークはお出かけ 出来ない人がステイホーム 家でいかに快適にいることが出来るかと思い DIYに目覚め、ホームセンターも大賑わい しているそうだ。そこまでしなくても冬物の 衣類を片付ける季節なので、思い切って服も 処分をしようかと思っているのに ゴールデンウィークを待つ事もなく、旦那が 今日からテレワーク。2階寝室の窓際に作り 付けの机は、物置きと化していましたけど 4年目にして、初めて使われる事となるとは 夢にも思いませんでした。だから天気も良い けど衣替えは出来ません 今まで紹介をした横浜市の所有で一般に 公開をしている洋館の他にも、山の手に 戦前に建てられた洋館が、幾つも残って いる。山手89-6番館(えの木てい)は 1927(昭和2)年に朝香吉蔵の設計で 建てられた 横浜開港し、海岸沿いに建てられた外国の 商館は「一番館」「二番館」・・と呼ばれて いたそうで、この山手十番館は母体である 勝烈庵の十番目の店として昭和42(1967)年 明治100年を記念して建てられたものらしい 禁教令の緩和直後に、横浜居留地(山下町)に パリ外国宣教会が創建をした、横浜天主堂が 1906年現在地に移転。関東大震災で倒壊した 為に、ヤン・ヨセフ・スワガーの設計により 1933年に再建されたカトリック山手教会 現在、放映中の「はね駒」(再放送)とか 花子とアンなどでも、キリスト教の女学校で 主人公が学ぶ姿が描かれていたが、山手は そういったミッションスクールの発祥の地 であるらしい。名こそ変わったりもしたが 山手で誕生した女子ミッションスクールは フェリス女学院(1870年創立)、横浜 共立学園(1871年創立)、横浜英和学院 (1880年創立)、捜真学院(1886年 創立)、横浜雙葉学園(1900年開校) などなど 横浜が開港し波止場が建設され、居留地の 整備をはじめとした街づくりがはじめられ 当時の最先端とも言える都市の基盤を担う 技術が導入され、日本で初めて横浜に導入 されたものも多い 居留地の外国人たちは自国の状況を踏まえ 都市の基盤整備の重要性を痛感しており 当時はコレラが流行していた為、居留地の 排水と下水道の整備は欠かせなかった。その 近代下水道の記念碑もあった 今、朝ドラでエール!をやっているけど 西洋音楽が日本にやってきたのは、信長 時代の教会音楽を別にすると、幕末期の ペリー来航で音楽隊が演奏をしたのが初 だったようだ 4隻の黒船で来航したペリー提督は、米国 大統領からの親書を携え、横須賀の久里浜に 1853年7月14日に上陸し、この時に 海兵隊が演奏したのが米国独立戦争時の曲で ある「ヤンキードゥードゥル」で、日本語の 詩がつけられ「アルプス一万尺」となった またアメリカ南北戦争の「リパブリック賛歌」は 「ごんべさんの赤ちゃん」として日本人に親し まれた。明治となり鹿児島湾に停泊をしていた イギリスの軍艦から聞こえる軍楽隊の音楽に 島津久光が感銘を受けて、薩摩藩にも軍楽隊を 作る事になった その指導をイギリス軍に要請し、横浜に駐留を していた、英国第十連隊のフェントン軍楽長に 依頼。薩摩藩士32名が薩摩藩洋楽伝習生として 横浜に派遣され、イギリス軍の駐留地にも近い 本牧山妙香寺が、洋楽伝習生たちの寝泊りと 練習の場所となった為、日本吹奏楽の発祥の 地となった フェントンは日本の国歌で指導をはじめようと したが、その時点で日本には国歌がなかった為 伝習生が砲兵隊長であった大山巌(西郷隆盛の 従兄弟)に伝えると、 古今和歌集に記載され おめでたい歌として小唄、長唄から浄瑠璃でも 愛唱されている「君が代」が選ばれた 君が代は薩摩琵琶歌にもあり、大山巌の愛唱歌 だったんだとか。明治3年にフェントン作曲で 演奏をされたが、西洋音楽の要素が強くて歌い にくかった為に、エッケルトが吹奏楽用に編曲 したのが現在の「君が代」の曲らしい さてさて1862(文久2)年にリチャードソンら 4人のイギリス人らが、多摩川へピクニックに 行こうとして、横浜の生麦村で薩摩藩の島津公↑の 行列とちょうど出くわし、行列の前を乗馬して 横切ろうとしたので、薩摩藩士に無礼だと切り つけられリチャードソンは絶命をしてしまった 横浜居留地に住む外国人らは、ピクニックや馬の 遠乗りを安心して楽しめる場所が欲しいと、山手に 遊歩道と、公園を設置するように幕府に要求して 「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が交わされ 出来たのが日本初の洋式公園である「山手公園」だ 2007(平成19)年には、元町公園、港の見える丘 公園、山手イタリア山庭園とともに日本の歴史公園 100選に指定されたんだとか。また経済産業省の 近代化産業遺産に認定されており、開園した年には ↑薩摩藩軍楽隊(薩摩バンド)が演奏を行った 現代のテニスに近いルールができたのは、1874年に イギリスであったそうだが、それから2年後の1876年 6月、日本で初めてのテニスが山手公園で行われたと 「ジャパン・ウィークリー・メール」という新聞に 記事が載っており、日本庭球の発祥の地なんだとか 明治11(1878)年には、居留外国人女性で組織 された「横浜レディズ・ローン・テニス・アンド・ クロッケー・クラブ(横浜婦女弄鞠社)」が山下 公演の管理をする事なり、クラブハウスとコートが ここに設けられた この女性向けのクラブは注目を集め、フェリス女学校を はじめとして、近隣の学校がテニスを取り入れた事から 日本国内でもテニスが広まっていったそうだ。1982年に 「横浜インターナショナル・テニス・コミュニティー (YITC)」と改名し今も活動されている 公園敷地内にあるテニス発祥記念館は、1898年に開館し 館長の鳴海正泰氏のコレクションや、YITCが寄贈した 品が展示されている。当時のテニスは婦人らが馬車に乗り 紅茶やお菓子を持参でクラブへ集まって、長いスカート に長手袋という姿でゆったりとするスポーツだったとか 現在のクラブハウスは、関東大震災後に代官坂上に 建設された外国人向けの賃貸住宅「旧山手68番館」を 移築再建したものです。まだまだ横浜の旅は続く!            2020年1月19日に横浜で撮影       新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止の為、多くの施設が       臨時休館中だと思われます。自粛の解除後に横浜にいらして下さい にほんブログ村 ​

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