殿上人日記

2020/08/07(金)21:34

私のお家は広いのよ。柳川の水郷でどんこ舟と金襴緞子の雛飾り

旅のいろいろ(114)

​ ​ 2月上旬に、娘と出かけた長崎旅行​も 最終日。九十九島を遊覧をして佐世保 から佐賀県に入って、有田で昼を食べ 次は福岡県の柳川(やながわ)です ここでは希望者は、有料でどんこ舟に あとの人は1時間程のフリータイムです 柳川は前に一度、来た事がありますが 今回はちょうど雛飾りの時期だったので どんこ舟には乗らず、前回も見学をした お屋敷を拝見しようと思いました 柳川(柳河)藩主であった立花家の広大な 御殿とお庭を有料で見学が出来るのだ。 元文3(1738)年、第5代藩主立花貞俶が 柳川城の南西隅にあたる御花畠(ここ)に 別邸を築いたそうである 明治となり立花家は伯爵となっていたが 立花家の第14代当主立花寛治によって ゴージャスな迎賓的な邸宅が明治43年に 完成し、今も当時の姿を残し地元の人から 御花(おはな)と呼ばれて親しまれている 立花家についてウィキペディアで説明すると >南北朝時代に、大友貞宗の子の大友貞載 >が筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称した >ことより始まる >以来大友氏の重臣として重きをなしたが、 >立花鑑載のとき大友義鎮(宗麟)に背いた >ため、同じく大友氏支流の戸次鑑連(立花 >道雪)により攻め滅ぼされ、鑑載の子・ >立花親善の代で断絶した。 >大友義鎮は大友氏の一族、戸次鑑連を立花 >鑑載・親善にかわって立花城に入れ、立花氏の >名跡を継がせた(鑑連はのちに入道して道雪と >号す)。鑑連自身は主家である大友家から >立花姓の使用を禁じられたため、立花姓を >名乗ってはいないが、立花道雪の名で知られる >道雪は男子がなかったため、初め娘の誾千代 >(ぎんちよ)に立花城を譲り、晩年に道雪と >同じく大友氏の庶流であった高橋紹運の息子、 >統虎を誾千代の婿に迎えて養子とした。統虎 >改め立花宗茂は斜陽の大友氏を支え島津氏 >との戦いに活躍し、豊臣秀吉の九州征伐の後、 >筑後国柳川に13万2000石を与えられた。 >立花宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に参加したため >(大津城攻めのため本戦には参加できなかった) >所領を没収され流浪したが、1604年に徳川氏に >より取り立てられ、1606年、陸奥国棚倉で >1万石を与えられて大名に返り咲いた。 >その後、大坂の陣でも戦功をあげ、1620年、 >関ヶ原の戦い以降に筑後柳川32万石を支配 >していた田中氏が絶家したのをきっかけに >柳川10万9千石を与えられ、旧領に戻った。 >関ヶ原で改易された武将が再び「大名」と >して復活できた例は少なく、その中でも旧領に >戻ることができたのは立花宗茂ただ一人である。 >江戸時代の立花氏は柳川藩主として明治維新 >まで続き、維新後は華族に列して伯爵を授け >られた。現在の立花家は、柳川市の自邸立花氏 >庭園(松濤園)を改装した料亭・旅館・宴会場 >「御花」を経営している。 との事でして。戦国期の女性は時代に翻弄を されたお市の方や三姉妹、細川ガラシャなど 人気がありますが、岩村の女城主のおつやや 大河の井伊直虎のように、立花家のお姫様の 誾千代もまた女城主であった >大友氏の有力家臣(加判衆)であった戸次鑑連 >(立花道雪)の一人娘として筑後国山本郡(現・ >福岡県久留米市草野)の問本城にて誕生。名前に >含まれる「誾」の字は“慎み人の話を聞く”という >意味合いを含めて肥前の僧侶、増吟が名付けた。 >天正3年5月28日(1575年7月6日)、誾千代が >7歳の時に立花城の城督・城領・諸道具の一切を >譲られている。道雪は後継者となるべき息子が >おらず、一人娘に城督を継がせるため、通常の >男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家で >ある大友家の許しを得た上で、姫を立花城の >城督とした。 大友家の重臣の子であった宗茂が、誾千代と 結婚し立花道雪の婿養子となって、誾千代に 代わって家督を譲られたのだが >宗茂が不在の間、城の守りは妻である誾千代が >任せられていた。そのため侍女たちとともに >武装し、敵からの攻撃に備えていた >『大友文書』によると、「戸次伯耆守は >大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚が >くさり衰えたり。されど娘ありて勇壮。 >城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、 >戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を >奪う」という記述がある。 >宗茂が文禄・慶長の役で不在の間、秀吉は >誾千代を言葉巧みに名護屋城に呼び寄せ >手込めにしようとしたが、それを察知した >誾千代はお付きの女中に鉄砲を構えさせて >護衛させ、また自らも武装をして乗り込んだ >為、それに恐れをなした秀吉は手も足も >出なかったとされる。 >関ヶ原の戦いの時には、居館から甲冑を着て >出撃、先に柳川西側の渡船口にて鉄砲隊を構え >射撃して鍋島水軍を近づけず、そして南側へ >往き、自分が別居中の宮永村にて攻め寄せる >加藤清正軍を威嚇して、加藤軍の進軍を改道 >させたとされている。 なかなかの女城主ぶりだ。しかし夫婦仲が良く なかったようで、彼女は後年は、別宅に住んで 子供もいなかった。宗茂の実弟の子を養子とし 後世に繋いだようである こちらは立花伯爵家のお嬢様。この邸宅が 完成した同じ年に誕生された立花文子嬢は 林野局にお勤めのお婿さんと全国をまわり 終戦後には柳川に一家で戻り、お婿さんが 立花家16代当主となったのだが 華族制度は廃止され、膨大な財産税を 払う為に、東京の不動産を処分しても 借金が残ってしまったそうだ。そこで この柳川の大きな屋敷で、料理旅館を 始めたそうですよ 昭和25年に料理旅館「御花」を開業し 伯爵家のお嬢様だった女将の文子さんの 口癖は「なんとかなるわよ」との事で 今でも「御花」は料理旅館をしながら お屋敷も有料で公開をしており 春先には、艶やかな雛飾りが座敷に 飾られている。こういったものも その時期に行かなければ。柳川の さげもんも見たかったしね。ウィキ ペディアによると >さげもんは、福岡県柳川市に伝わる風習。 >吊るし飾りのひとつ。女児の生まれた家庭 >では、その一生の幸せを願い雛壇は父方の >実家から、さげもんは母方の親戚、母、 >祖母が用意する。 >元々は奥女中の嗜み教養のひとつとして、 >お姫様が生まれると琴爪入れなどに使う >袋物を姫様の健やかな成長を願い繕い >贈ったのがはじまり。やがて吊るし雛へと >型を変え柳川まりとともに伝承されて >きた風習である。 >また彼女らの里帰りを通して庶民にも伝え >られた。裕福な家庭は雛壇をさらに豪華に >ひきたてる為、部屋中にさげもんを飾りつけ >客人を招いた。あるいは雛壇を用意できぬ >家庭でもその代わりとして布団ハギレで縫い >合わせ心をこめた初節句の祝いとした。 >人生50年と言われた時代に女性は一歩引いて >49年と配慮した意味を含ませ、さらに中央に >特大柳川まり2連を加え計51個とする事により、 >人生50年よりも長生きできるように願をかける。 >これを初節句の際、雛壇の横に左右対で飾る。 >これに類する風習として静岡県東伊豆町の >「雛のつるし飾り」、山形県酒田市の >「傘福」(笠福)がある。 との事で、艶やかな雛飾りをじっくりと 楽しむ事が出来た。立花宗茂と誾千代夫妻 地元では大河ドラマ化も狙っているらしい 誾千代以上に立花宗茂も人気があるようだ 何でも秀吉と家康を魅了した、戦国最強の 武者が浪人になり、再びの返り咲き ウィキペディアで彼の事を紹介すると >(九州平定)戦後、秀吉はその功を認めて筑後国 >柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣 >大名に取り立てた。このとき秀吉は宗茂を「その >忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」「九州の >逸物(原文:誠九州之一物ニ侯)」と高く評価した >文禄の役でも立花軍が明軍を食い止めたために >戦機が生まれ、小早川隆景などの日本軍が明軍を >撃破した。宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、 >二つの首を鞍の双方に付け、刀は歪んで鞘に戻せ >なくなったという。 >『甫庵太閤記』に「鬼神も敵す可らざる御功績も >あり」と記述があるので、柳川の民からも「鬼将軍」の >異名で呼ばれた。小早川隆景は「立花家の3,000は >他家の1万に匹敵する」と評価し、秀吉からも「日本 >無双の勇将たるべし」との感状を拝領した >小田原征伐に従軍、岩槻や江戸に参陣。 >2月1日、秀吉は諸大名の前で宗茂を、 >「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西 >無双」と評し、その武将としての器量を >高く褒め称えた >徳川家康は宗茂を畏敬し賞賛していた。二条城に >上洛した際、本多正信に、直々に絶賛した記録が >残っている。武田信玄、上杉謙信、織田信長等の >名だたる武将と比肩して。正信は、殿がそのように >褒めるお方は誰にと問えば「家康公の仰に、天下に >隠れなき立花宗茂が事よと宣ふ。」(翁物語) >『名将言行録』では、宗茂のことを「人と >なり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて >誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。 >流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、 >民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、 >義を以てす。 >故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、 >奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば >必ず勝てり」と記している。文武両道の名将で、 >連歌・書道・茶道・香道・蹴鞠・狂言・能楽・ >笛・舞曲・料理・竹製花器・手作り仏像・弓製作 >など多彩の技芸にも長けていた文化人とされる いやぁ~。なんだかすごい。そんな人物だから こそ、戦国を生き抜き江戸時代も将軍家からも 重宝されたのだろう。もし大河をするとしても 誰が演じるのだろう。誾千代とかは思いつくん だけど といった訳で、立花家のお屋敷と展示館を 見学させていただき、残る時間は柳川の プチ街歩きを楽しもうかな。柳川は掘割と いう水路がめぐらされた水郷です。それを 船頭さんに操られたどんこ舟に揺られ のんびりと。2月上旬はもうマスクを つけている人もいますね。式場から 披露宴会場へ移動する花嫁舟なども あるそうですよ なんだか倉敷とか佐原なども思わせる 光景ですが、やっぱ水郷は風情があり ますね。この柳川出身の有名人は結構 あるようです。妻夫木聡、徳永英明、 北山たけしといった芸能人の他にも 大相撲の琴奨菊、横綱土俵入りの 不知火型を考えた、第十代横綱の 雲龍久吉。なんでも途中で名前が 変わったみたいです。小説家では 檀一雄 そして北原白秋もここ柳川の商家の 生まれです。ウィキペディアによれば >北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年 >(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年) >11月2日は、日本の詩人、童謡作家、歌人。 >本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。 >詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」 >「ちゃっきり節」等)の分野でも傑作を残して >いる。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い >継がれる童謡を数多く発表し、活躍した時代は >「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並んで評さ >れる、近代の日本を代表する詩人である。 どんな童謡の作詞かなと、並べれてみると 雨、あめふり、ゆりかごのうた、この道 からたちの花、ペチカ、ちゃっきり節 待ちぼうけ、砂山などなど・・・ あめふりは、ピッチピッチ チャップチャップ ランランランで。雨は、雨がふります雨がふる って感じです。あめふりは「コドモノクニ」と いう児童雑誌で発表されたそうだが、他にも 野口雨情のうさぎのダンスも、この雑誌から 挿絵画家には竹久夢二や東山魁夷などの 名前もあって児童雑誌とはいえ侮れない 復刻版とかあれば見てみたいなぁ。集合 時間が決まっていたので、そろそろ バスに戻らねば もう少し時間があれば良かったけど、まだ この後にも観光があるんですよ。どれだけ 充実してるんだ3日目。個人だったら既に 駅に向かって、名古屋行きの新幹線に乗る 時間かも 船頭さんによっては話が上手いとか 歌が上手いとか、いろいろあるけど 今回の人はイマイチだったとバスで 添乗員さんが言っていた。フリーで 良かったかな♪ 御花の売店で、八女抹茶もなかを 娘と半分こ。福岡県八女市あたりの 八女茶の生産高は全国6位。手頃に 名物を食べるのも旅の楽しみだ バスでどんこ舟組を待っていたら、一般 車両の利用者さんが肩ににゃんこを乗せ 車に戻ってきていた。紐をつけての観光 みたいだが、猫連れは珍しい 土岐アウトレットもわんこ連れが多いが 一度、フクロウを連れた人がいたのには 驚いた。ではでは一番最後の観光地へと 出発しますか!    つ づ く          2020年2月10日に福岡県柳川市で撮影 にほんブログ村 ​​​

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る