花の醍醐で紅葉狩り。天下人の藤戸石と国宝もワンサカ
長らくここで紹介をしてきた10月末と11月中旬の国宝展目当ての京都行きの紹介も、いよいよ最後の回となりました2度目の京都。11月16日の最終日に出かけた先は・・・黄金の菊の御紋と、桐の紋のある由緒ありげな立派な門。真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭の三宝院(さんぼういん)にある国宝の唐門である。菊と言えば皇室そして桐は豊臣秀吉の紋として有名でありここは秀吉が醍醐の花見を行った寺である本来は三宝院の為に造られたものでなくて違う場所に建立する予定のものが、ここに建立されたたしく、北政所の寄進によって前田玄以の奉行により建立されたと伝わる桃山時代の門で、2011年の改修により黒漆塗が施され一層、立派になったウィキペディアの記述を引用すると>永久3年(1115年)、左大臣 源俊房の>子で、醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院>(かんじょういん)として開き、後に>仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。>応永3年(1396年)に足利義満の猶子と>なって醍醐寺座主に任じられ、続いて>准三后となり、後には足利義教の室町>幕府将軍擁立にも活躍するなどした。>以後、歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる>慣例が成立する>古くから醍醐寺は真言宗系の修験の>中心であったが、この頃から三宝院が>真言宗系の修験者、山伏の取締にあたる>ようになる。(中略)応仁の乱で三宝院が>焼失し廃寺同然となるが、>安土桃山時代に醍醐寺金剛輪院の院主で>あった義演は豊臣秀吉の信頼が厚かった>ため、同院を中心に有名な醍醐の花見が>開かれた。義演は准三后となり、秀吉の>許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を>三宝院と改称した>桜で有名な醍醐寺三宝院庭園はその時期に>整備された。義演は徳川家康からも信任を>受け、江戸時代初期の天台宗系修験道で>ある本山派本山の聖護院との相論では江戸>幕府の支援を受けて、慶長18年(1613年)に>修験道法度が制定された。この中央の3つの石は阿弥陀三尊を表す「藤戸石」であるが天下人が所有するという名石である。源平の戦いで源氏方の佐々木盛綱が、馬で海を渡ろうと思いつき藤戸の渡(倉敷)の浅瀬を土地の若い漁師から教わり、他言をされては先陣を人に奪われてしまうと思い漁師を切り殺した謡曲「藤戸」にも描かれた、漁師を殺した場にあり、浅瀬の目印でもあった藤戸石は勝利へ導いた石として足利義満が金閣寺へ移し、その後は細川典厩家の庭に置かれていたものを、信長が足利将軍の為に建てた二条城に据え置き、後に豊臣秀吉の聚楽第から、花見の為の造園で醍醐寺三宝院へと運ばせた派手好きな豊臣秀吉のエピソードで必ず出てくるのはこの醍醐寺三宝院の山麓で開催をされた醍醐の花見であろう。その様子はウィキペディアの記述によれば>豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を>初めとして、諸大名からその配下の>女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な>催しで、九州平定直後に催された北野>大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の>催し物として知られる。>記録に残るその日の輿の順は、1番目に>北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、>3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、>5番目に加賀殿、その後に側室ではない>前田利家正室・まつが続いた。宴会の>席では、正室である北政所の次に杯を>受けるのを淀殿と松の丸殿が争い>北政所とは家族ぐるみの長い付き合いの>まつが「歳の順から言えばこの私。」と、>申し出てその場をうまく取りおさめたと>いう話が伝わっている。(中略)花見に>招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の>他には唯一前田利家の名が見えるのみである>応仁・文明の乱のあと荒れ果てていた>醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主>である義演は、秀吉の帰依を得て良好な>関係を築いていたが、秀吉の最期が近い>ことを感じ取り、一代の華麗な英雄の>最後にふさわしい大舞台をしつらえる>ために、あちこちにそれとなく手配をして>この醍醐の花見を実現させたともいう。>秀吉はこの約5か月後に没した。花見の>責任者に奉行の前田玄以を任命し、秀吉>自ら下見のために醍醐寺へ足繁く通い、>殿舎の造営や庭園の改修を指揮し、醍醐山の>山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の>桜を植樹した>参加した女性たちには2回の衣装替えが>命じられ、一人3着ずつ着物が新調され>衣装代だけで2015年現在の39億円に>相当する金額がかかった ウィキペディアより転載との事で今でも醍醐は桜の名所で、私も桜の頃にも来たことがあるけど、今回は紅葉狩り。庭は撮影OKだが建物内部は撮影禁止なので写真はないが、表書院は醍醐の花見の際して奈良から移された能の楽屋を中門を付加するなど、書院造風に整えたもので国宝に指定をされている更に玄関、勅使の間・秋草の間・葵の間庫裏、宸殿(奥宸殿)、純浄観、護摩堂(本堂)など殿堂6棟の他、 長谷川等伯一派と、石田幽汀による障壁画の数々が重要文化財に指定をされている今週末に最終回を迎える大河のおんな城主直虎だが、海老蔵信長の最後がどうなるかと楽しみだったのにとりあえず死んだらしいと伝聞。ナレ死すらもなくて、桶狭間の戦いをすっとばした大河だけあるわと拍子抜けでやっぱ岩村のおんな城主の方が素材として面白かったんじゃない?旦那は後半の阿部家康が気に入ってしたけど信長に殺されるかもと光秀に吹き込まれて戦々恐々。直虎がわざわざ関西まで出向いて家康の逃げ道の段取りをを作るなんてこじつけすぎ。まっお江が一緒に家康と伊賀越えをしたってファンタジー(妄想)大河もあったけどもうわき役女性を主役にするのは辞めたら?それだけに来年は堂々と西郷隆盛するのは好感が持てるが、西田敏行と鹿賀丈史のイメージがまだ残っている。西田さんの秀吉もぴったりだったなぁ(おんな太閤記)まっ、これは北政所が主役だけど関ケ原のキーパーソンではないかと言われる程だし北条政子や日野富子、春日局にしても別格持統天皇とかやったらいいのになぁ~。天皇家内紛だから古代でも無理なのかなぁ。天智天皇の皇女として生まれ、政略結婚で姉と共に叔父の天武天皇(大海人皇子)に嫁ぎ、甥と夫の確執によっての逃避行から戦乱。戦いに勝利し天皇となった夫を支えて(姉は既に亡くなっている)病弱な息子を天皇にするべく有力な皇子を策略で追い落とし(姉の忘れ形見も)たが息子が亡くなると、7才の孫を天皇にするまではと、自分が皇位につき藤原不比等という優秀な腹心もいた事もあって、律令国家建設を推し進めた、類まれな才能と行動力を持った女帝であったと断線しましたが三宝院から、今度は醍醐寺の広大な境内へと向かいました。その入り口には西大門(仁王門)。豊臣秀頼が再建したものでそこに安置された仁王像(重文)は、もともとは南大門に祀られていた尊像で、平安後期に仏師勢増、仁増によって造立された尊像である醍醐寺についてウィキペディアによれば>真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を>醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は>薬師如来、開基(創立者)は理源大師>聖宝である。古都京都の文化財として>世界遺産に登録されている。>醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、>空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が>准胝観音並びに如意輪観音を笠取山>頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂>付近を「醍醐山」と名付けた。>醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)>を中心に、多くの修験者の霊場として>発展した後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの>祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、>その圧倒的な財力によって醍醐山麓の>広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展>することになる。>その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は>荒廃し、五重塔のみが残された。しかし>豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけ>に、紀州などから寺院建築が移築されたり>三宝院が建設されたりなどし、今日の姿>となった。国宝の金堂であるが>入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。>平安時代後期建立。豊臣秀吉の発願に>より紀州から移築したもので、慶長3年>(1598年)から移築を開始し、秀吉>没後の慶長5年(1600年)に落慶して>いる。当初は紀州湯浅の満願寺本堂で>あったという。>部材には平安時代のものが残るが、堂が>湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、>移築時の桃山時代の手法も混在する。内部>には本尊薬師三尊像(重要文化財)を>安置する ウィキペディアより転載同じく国宝の五重塔は>天暦5(951)年建立。承平元(931)年>その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を>祈るために第三皇子の代明親王が発願し、>穏子皇太后の令旨で建立が計画された。>しかし、代明親王の死去(937年)などの>影響で工事は停滞し、発願の20年後に>完成した。>総高38メートル。うち相輪部が12.8メートル>で、全体の3割以上を占める。創建以来修理を>重ねたが、特に天正13年(1585年)の地震>では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な>被害を受けたため、豊臣秀吉の援助で慶長>3年(1597年)に修理が完成している>京都に残る数少ない平安時代建築として>貴重であるとともに、初重内部の両界>曼荼羅と真言八祖を表した壁画も平安>絵画の遺品として重要であり、塔本体>とは別に「絵画」として国宝に指定>されている。今回は行く気にもならなかったが、下醍醐に対してお山の上には、上醍醐にも伽藍が幾つもあって国宝の薬師堂とか、国宝の清滝宮拝殿などもあり、お寺の名の由来となった醍醐水という霊泉もわいている下醍醐から上醍醐までは、山道を1時間ほど登らなければならず、まだ若い頃に一度だけ参拝をさせていただいたが、キツかった覚えが標高450メートルの醍醐山の山上にある今回出かけた京都のお寺は、南禅寺や青蓮院、知恩院といいどこも格式も高くて、歴史もある権力者に近しいお寺ばかりを紹介したけど、ここももう、どこもかしこも国宝だ、重要文化財だとわんさか上醍醐の薬師堂にはかつて、国宝の薬師三尊像重要文化財の閻魔天像、帝釈天像、千手観音像といった諸像があったのだが、今は防犯&保存から下醍醐にある最新の設備を持った霊宝館に保管&展示がされている五重塔など数棟の建造物の国宝の他にも、絵画9件、彫刻(仏像)二体、文書&書籍は7件と24件の国宝があり、重要文化財に至っては快慶の仏像や俵屋宗達の屏風絵など、数十件は軽くありそうだ。国宝展にでかけなくても国宝が幾つも拝見できるなんでも仏像・絵画・工芸品など10万点以上の寺宝があるそうだ。なんでこんな膨大な数になるかというと文書とかお経などは1件あたりの数量が膨大であるので。2017年に国宝になったばかりの「宋版一切経」も 6,102帖(附経箱604合)と数千点で構成をされている霊宝館ではこのような貴重な寺宝を、テーマなど決めて展示をしており、先ほどの国宝ほやほやの「宋版一切経」も見る事が出来た。宋版一切経は南宋時代初期に木版で印刷刊行された仏教経典の一大全集で、ほぼ完全に残っており経箱に南宋の年号が確認され、醍醐寺に伝わった経緯も判るので重要文化財から国宝に格上げがされた貴重な仏教関連のお宝の他にも、醍醐の花見で秀頼、前田利家らが詠んだ和歌の短冊など所縁の宝物も展示をされていて、歴史ファンには興味深かった「醍醐大しだれ桜」は樹齢180年。東西24メートル南北20メートルもある大樹で、霊宝館にはこの他にも40本以上の桜がある。推定樹齢百年のソメイヨシノはソメイヨシノとしては京都最古、高さは11メートルを超えるを越える醍醐寺は、地下鉄で醍醐駅まで行って、そこからはコミュニティバスのようなもので行ったが、帰りは東山三条まで行く路線バスが、ちょうど時間がよくそれを利用した。他にも京都駅からのバスもあった 平成29年11月16日に京都で撮影にほんブログ村