戦国一のイケメンや、淀君と三成所縁の彦根の寺で雨宿り
東京オリンピック&パラリンピックに向けて、日本のアーティストが集って、東京の「今」を象徴する音楽をNHKワールドJAPANから、世界に発信するという「SONGS OF TOKYO」のペア入場整理券は無事に届きました。田舎なので届くのも遅めだったのかな一夜と二夜に分かれていて、私の行くのは二夜で石川さゆり、内田真礼、関ジャニ∞、ゴールデンボンバー、DA PUMP、乃木坂46、三浦大知といったメンバーが登場しますが、なんと言っても今年大ヒットのDA PUMPの「U.S.A.」は実際に見てみたかったし、石川さゆりの生歌も楽しみ~フェルメール展の日時指定チケットも購入しました2000年もフェルメールが幾つもやってきた年で大阪市立美術館日蘭交流400周年記念特別展覧会で聖プラクセディス、リュートを調弦する女、地理学者真珠の耳飾りの少女、天秤を持つ女5点。アムステルダム国立美術館所蔵17世紀オランダ美術展では恋文も見た2008年のフェルメール展光の天才画家とデルフトの巨匠たちは、マルタとマリアの家のキリスト、小路ディアナとニンフたち、ヴァージナルの前に座る若い女ワイングラスを持つ娘、リュートを調弦する女、手紙を書く婦人と召使いの7点とパワーアップしており、無論私も出かけてました~↓「旅の始まりはいつも突然に。いざゆかん、東京CITY!」そして今回はそれを上回る9点(入れ替えもあり現在は8点展示)が来日。しかも日本初公開作品もあるというのだから、これは見に行くしかない。雑誌やTVなどでも紹介をされている今回のフェルメール展では牛乳を注ぐ女、マルタとマリアの家のキリスト、手紙を書く婦人と召使い、ワイングラス、真珠の首飾りの女手紙を書く女、リュートを調弦する女、赤い帽子の娘(~12月下旬)、取り持ち女(1月上旬~)が来日この他にも時折、日本に来日するフェルメールだけど、残されている作品は35点しかなくってその中でも人気なのが、青いターバンが印象的な「真珠の耳飾りの少女」で映画化もされている真珠の耳飾りの少女 [ スカーレット・ヨハンソン ]今回は、運よくフェルメール展は見れるけど今年の上野はこの後も、ルーベンスやムンクなどの展覧会も予定されているので、あぁ~そっちも見たいのになぁ・・・。年末年始のあたりでもう一度、上京できればいいのだがさてさて写真の方は5月上旬に出かけた日帰りバス旅行無料招待で出かけた、彦根の後半戦だかなりの土砂降りだったので、早々に彦根城を諦めやってきたのは、夢京橋キャッスルロードだけども、やっぱ観光もしておきたいで、ネットで調べた「弘誓山宗安寺」はまだ拝観をした事がなかったので、この機会にとやってきました。土砂降りの中で・・・・今回はこういった案内板をこまめに撮影してるので、詳しい事は↑看板をお読み下さい。あの映画やドラマではイケメンが演じる石田三成の佐和山城の表門とは♪ もう妄想ムード突入最近は映画「関ケ原」の岡田准一が演じていたけど、小栗旬や山本耕史、田中圭、萩原聖人及川光博などなど。かつては石坂浩二、近藤正臣、奥田瑛二、真田広之なども演じたそうだ徳本行者であるが、ウィキペディアによると>文化13年(1816年)6月22日から7月1日まで>信州松本に滞在し、生安寺を中心に化益を執り>行い、受けた人は28,000人を超えた。その>影響もあり、松本市内には善光寺の等順を>上回る七十三基の徳本名号塔が存在しているどこかで見た訳だ井伊家にかかわりのあるお寺ではあるが、江戸期の「朝鮮通信使」の宿泊所でもあり、当時の部屋も残されており、パネルで通信使の説明などもあったウィキペディアによれば>室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗>王朝の返礼であった。1375年(永和元年)に足利>義満によって派遣された日本国王使に対して信>(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まり>である。15世紀半ばからしばらく途絶え、安土桃山>時代に李氏朝鮮から秀吉に向けても派遣された。>しかし、その後の文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)に>よって日朝間が国交断絶となったために中断されて、>江戸時代に再開された。江戸幕府の外交政策において、>朝鮮は琉球王国と並んで正式な国交のある通信国と>されていた。(中略)通信使は将軍の代替わりや>世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として>派遣されるようになった拝観料を支払って中も見学が出来て、貴重な寺宝が拝見できるのだが、石田三成が戦の前に祈りを捧げ「危険な目に遭う時にお地蔵さんが現れ、身代わりとなって助けてくれる」という、身代わり地蔵として拝んだ石田地蔵尊更には1メートル程の高さの厨子に、小さな金色の阿弥陀仏が安置された、石田三成ゆかりの千体仏も実際の歴史的な人物に、ゆかりのある仏様だけになかなか、そこからは離れられそうもない。本尊である「阿弥陀如来立像」は、鎌倉時代の作で大坂夏の陣の際に、井伊家家臣の所藤内が大坂城の仏間より拝持したものだそうで、淀君の念持仏といわれているそうだ徳川幕府の大政奉還が決定した後に、彦根藩の足軽級武士がここ宗安寺に集まり、新政府支持で結束をしたそうである。官軍に参加して若くして亡くなった藩士のお墓もあった大坂夏の陣で、井伊直孝勢に討ち取られた、豊臣の家臣である「木村重成」の首塚もあった。秀吉の元で長年にわたり活躍をして知行も18万石まで出世をしながら、秀次事件で秀次を弁護した事で連座の罪に問われて、自害を命じられた木村重茲の息子である連座で長男の高成も切腹させられ梟首された他に娘も磔にかけられたというが、幼少であった重成は罪を問われず、母の宮内卿局(一説には右京大夫局)が豊臣秀頼の乳母となった事から、重成は幼少から秀頼のお小姓として仕えた。ウィキメディアによれば>秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり>重要な会議などにも出席するようになる。慶長4年>(1599年)12月17日、豊臣姓を与えられる(中略)>大坂冬の陣では後藤基次とともに今福砦攻防戦を>展開し、徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた>真田丸の戦いにも参加する。また、和議にあたっては>秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その>進退が礼にかなっているのを賞された。慶長20年5月>大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部>盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣>八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、>藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した。藤堂軍の右翼を>破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると>敵の来襲を待ち構えた。その後、敵陣へと突撃を開始>するも、井伊軍との戦闘の末に戦死した。井伊家家臣の>安藤重勝に討たれたとも、庵原朝昌に討たれたが朝昌は>その功を重勝に譲ったともいわれる。>首実検でその首級が家康に届けられると、頭髪に香が>焚きこめてあったので、その覚悟を感嘆させたという>逸話が残っている。その後、首は重勝が密かに彦根>まで持ち帰り、安藤一族の菩提寺である宗安寺に>埋めたとされ、同寺院には木村重成の首塚がある>なお、慶長20年(1615年)1月7日に大蔵卿局の姪の>青柳を妻に迎え、八尾・若江の戦い前後に青柳と別れの>盃を交わしたという。重成の死後、妊娠していた青柳は、>近江の親族によって匿われ男児を出産後に出家した。>そして、重成の一周忌を終えると青柳は20歳で自害した>という戦国最強のイケメンとも言われ、真田丸では仮面ライダー俳優の白石隼也が演じていたそうだが、身長も大変高く、体格もがっちりしており、顔は色白で眉は黒々とし、目はキリリとしているなど。女装をしていても誰も気づかなかったなんて逸話もあるそうだひこにゃんのモデルはというと、彦根藩の二代目藩主の井伊直孝にゆかりのある1匹の白猫をモデルとしている関東の豪徳寺で直孝がにわか雨にあって、大木の下で雨宿りをしていると、手招きをする白猫を見て近寄ると直後に大木に雷が落ち、白猫のおかげで難を逃れたと喜び、招き猫発祥伝説でもあるそうだかつては第一公設市場が置かれ、彦根の台所と呼ばれ地元の人々に親しまれてきた場所が、四番町スクエアとして生まれ変わったそうで、色んなお店があったそして先程の夢京橋キャッスルロードの東側に並行するように、お寺が連なった風情のある町並みがあった彦根には何度も来た事があるが、この通りは初めてこんな落ち着いた通りもあるのか佐和山麓から彦根城築城の際に、ここに移転をした来迎寺の木造阿弥陀如来坐像は、国の重要文化財に指定をされている1603(慶長8)年に、初代彦根藩主の井伊直政が創建したと云われる大信寺の石垣は、彦根城の築城の時の残石なんだとか。直政は関ヶ原の戦いの軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、三成の居城でもあった佐和山城に入城をしが、中世的な古い縄張りや三成の居城であったのを嫌い、新たに築城を考えたしかし関ヶ原の戦傷が癒えず死去。家督を継いだ子の井伊直継が幼少であったので、家老の木俣守勝が家康と相談し直政の遺志を継いで、1603(慶長8)年に現在の彦根山(金亀山)に彦根城の築城を決めたそうだ公儀御奉行3名により、尾張藩や越前藩など7か国15大名(15大名とも言われる)が手伝いを命じられた天下普請で1606(慶長11)年の二期までの工事が完了し、天守完成を持って直継が入城。その後も彦根藩のみの手により、1622(元和8)年に彦根城が完成をしたそうだそれに伴い、彦根城の城下町の町割りが本町地区(夢京橋界隈)から始まり、外からは攻めにくい道(鍵の手、どんつき、、狭い、迷う)が作られた西国と東国を結ぶ交通の要所にある彦根は、徳川幕府にとって特別の場所でもあり、信頼熱い井伊に任された訳だし桜田門外で暗殺された井伊大老も輩出をした、幕府きっての彦根藩が、官軍となり討幕に加わったというのも、色んな大人の事情でもあったんだろうな彦根城の周囲には、お寺以外にも武家屋敷なども連なっていたようだこのお宅にも看板があるのだが、雨がひどく帰りに見に行こうと思いながら忘れてしまって、なんだかのゆかりのあるお宅らしい今回は洋風のお土産にしたけど、彦根の和菓子屋で有名な「いと重菓舗」は創業200余年を迎える老舗で大老 井伊直弼の御用達「埋れ木」は、以前に食べた事がある。雨には降られてしまった彦根だが、初めて出かけた寺もあるし、それなりに楽しむ事が出来た。 平成30年5月7日に滋賀県彦根市で撮影にほんブログ村