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カテゴリ:読んだ本
2003年10月 (株)アリス館より
明治23年、紀伊半島沖でトルコの船が難破。 人々の懸命の努力で69人が救出された。 そして95年後、イラン・イラク戦争のさなか、日本人を救出したのはトルコの飛行機だった。 縁角救出をめぐる、日本とトルコ、感動のドラマ。 (表紙裏の紹介文より) 児童書です。 字が大きく、100頁くらいで挿絵も多いので、あっという間に読み終わってしまいます。(^^; 史実に基づく実話です。 1890年(明治23年)9月16日、台風により、紀伊半島南端にある紀伊大島付近で、 大型船が沈没。 船の名はエルトゥールル号。 オスマン・トルコ帝国海軍の艦船で、トルコから日本への初めての使節団を乗せ、 使命を終えて、横浜港から帰国の途中でした。 大島村の樫野の集落を中心に、村人達は台風の中、懸命の救助を行います。 乗員609名のうち、救助されたのは69名。 豊かな村というわけでもなく、米が貴重品だったにも関わらず、村人は米や芋を持ち寄って、 手当をしました。 4日後の20日、生存者達は神戸の海軍病院へ移送され、負傷の癒えるのを待ってから 海軍の軍艦「比叡」と「金剛」によりトルコ本国へ送り届けられました。 その後も、大島村の人々は埋葬地の掃除や花の世話を続け、10年毎に殉難者を悼む式典を 難破場所である樫野崎で催してきました。 それから95年後。 1985年(昭和60年)にイラン・イラク戦争が勃発。 イラン在住の各国民間人は一斉にイランからの脱出を始めます。 民間航空機は自国民が優先。 他国民が次々と脱出していく中、イランへの直行便を持たない日本は出遅れてしまいます。 テヘランにある日本大使館の野村豊大使は、外務省を通して、日本航空に救援機を出すよう 求めますが、危険空域への飛行なので、なかなか了解が得られない。 野村大使はヨーロッパ各国の大使に、日本人を乗せてくれるよう頼みますが、それもダメ。 「最後の頼みの綱」として、野村大使はトルコのビルセル大使を訪ねます。 野村大使とビルセル大使は着任の日が同じで、家族ぐるみの付き合いをする仲。 ビルセル大使は、本国に問い合わせて最大限の努力をすると答えてくれました。 3月17日、イラクが衝撃の通告を出します。 今から48時間後からは、イラン上空を戦争空域とし、すべての飛行機を飛行禁止とし、 飛行するものは民間機であっても攻撃する、というもの。 18日時点で、イラン国内に残された日本人は280人ほど。 日本航空は350人乗りジャンボの離陸準備を整え、「午後6時までに派遣指示があれば 救援可能」としました。 しかし外務省は「何人が救援を必要としているのか不明のため、派遣中止」を伝えます。 19日午後4時30分。 タイムリミットの8時まであと3時間半という時、トルコ航空の215人乗りDC10が現れ、 残されていた日本人達を全て搭乗させ、テヘラン空港を飛び立ちます。 時間ぎりぎりでイラン領空を抜けて、トルコ領空へ入った時、機長が 「Welcome to Turkey(トルコへようこそ)」 とアナウンスする。 機内にわき起こる拍手と歓声。 深く感謝する野村大使に、ビルセル大使は 「日本とトルコはエルトゥールル号の時から、深い友情の絆で結ばれている」 と答えるのです。 いい話ですねえ。感動しました。 トルコ機長のアナウンスの、なんと粋であることか。 それに引き換え、政府のなんとだらしないことか。 今回は児童書だったのですが、もう少し詳しい話が載っている本も見てみたいです。 あと、ネット上にこれ関係のフラッシュがあるそうなので、それも見てみたい。 号泣ものらしいので、覚悟が必要ですけど。(^^; AAもあります。こちら→ http://tana.pekori.to/tear/log/0412.html こっちも泣いちゃう。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.04 13:50:49
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