カテゴリ:健康~こころとからだ
人に会う機会が多い私。人の数だけ人生いろいろあるけれど、いい人ばかりではない。
だけれど、自分の友人知人を、別の人に紹介する場があった時にいわれるのは 「雅さんの周りには、本当に心が優しいというか、いい人が多いですね」 といわれる。 自分のことよりも、自分が憎からず思っている人を褒められると、なんだかとても嬉しい。 小さいころピンクのプラスチックの宝石箱に、石やらビーズやら、キラキラしたものをたくさん集めていたけれど、その中身を褒めてもらった感覚に近い。 まぁ、いい人が多いのは、私が竹を割ったような性格でちょっとアレなので、それを穏やかに受け止めてくれる人たちだけが自分の周りに残っているから…ということも自覚しているので、それをきちんと相手には言うようにしている(汗) とはいえ、いろんな人に会えば会うほど、たまにはウマが合わないとか、衝突することもある。「交通事故」に出くわすようなもんである。いい年齢になったので、衝突しそうな空気を持っている相手はかわそうとしたり、やり過ごそうとするのだが、それでも相手がぶつかってくることがある。 私の見た目が地味で、一見トロいというか、人の好さそうな感じに見えることがある(と友人に言われた)。だから、もたれかかられるというか、甘えられて、この人は何でも言うことを聞いてくれそうだ、とか、わがまま言っても応えてOKと思われてしまうのだろう。 でも、相手が思うほど包容力がないので、ある一定値を超えると、こちらも堪忍袋の緒が切れる。というわけで衝突が起こるのである。結構こちらも我慢するのだが(大阪オフに一緒にいた人はかいつまんで話をしたので想像がつくと思うが)、平均的に見て結構私は「努力」していると思う。 自分にとって閾値を超えて辛いことをされたときに、己の心を諫めるためだけではないのだが、まず感じるのは「ああ、この人は、こういう異常なふるまいをして、周囲や人に迷惑をかけたり支配しようとするのか。そんなに自分が大切で、自分が一番なのか。『業(ごう)』が深いからなんだろうな」ということ。 そして、「この人は悟りをひらくこともなく、心の安寧を得ることもなくこのまま生き、きっと生まれ変わって次の人生もいろいろ大変なことが起こるんだろうな、大変だよな」などと思ってしまう。 「業」は精神世界や宗教に興味のある人は「カルマ」などと呼ぶが、前世で行った結果が、現世で報いとなって現れることなわけで、業が深いとそれなりに次の人生が大変になると考えられている。 同情ではないが、相手の来世までそう慮ると、自分の心の中は「相手の心配」がメインになってしまうので、仕返しをしてやろうとか、やりかえそうとか、そういう気持ちはわかなくなってしまうのである。 これを読んでいる方に「腹を立てたら、同じようにしなさい」と説教するつもりはないが、そういう感情を持って相手と接すると、嫌な相手とコミュニケーションをとるときも、自分の心が少し軽くなるのではないだろうか。 <お酒メモ> 5月4日木曜日ひる 生ビール 大きめ陶器でひとつ よる 一白水成 特別純米 半合 写楽 純米 1合 奈良萬 中汲み 生 純米吟醸 0.7合 正雪 純米大吟醸 0.7合 シャブリ 2014 1/4本 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
いろんな人がいるから多様な世の中で面白いんでしょうが、自分の人生の中では波長が合わない人たちには関わりを避けていただきたく願っております。
(2017年05月06日 17時14分21秒)
翁小僧さん、こんにちは。
波長が合わない人と一緒に過ごす時間は、できるだけ小さくするというのも私が持っている信条のひとつです。 自分が嫌だと感じているときには相手も嫌だと思っている可能性もあるし、衝突を小さくするのはお互いの為かな、とも思います。 (2017年05月16日 17時34分25秒) |
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