カテゴリ:生き方
このところ自分の人生を見つめ直している。
久しぶりにいろいろ考えて、夜も一睡もできなかったり、寝ても2~3時間で、よく身体が持っているなと思っている。 食欲もわかないので、いい感じに痩せているので、さすがにこれではまずいと周りに指摘され、結構無理に食べているが、依然食欲は落ちたまま。吐き気と闘いながら食べている。 1週間くらい食べなくても人は死なない。だから食べなくてもいいんじゃないかと思うのだけれど。 いろいろ考えているうちに、ニーチェの哲学がふと浮かんだ。 ニーチェ=ニヒリズムみたいに捉えられているけれど、私が思ったのはニーチェが遺した、永劫回帰とか、超人とか、運命愛とか、そういった概念の方だ。 これらの言葉は、仏教の考え方の「結論」に近いところがある。つまり「輪廻転生」とか「業」とか、そういったモチーフを経て至る悟りの境地(涅槃)と、ニーチェが永劫回帰を唱え、それを経てたどり着く感覚は同じようなものではないかと思うのである。 数年前に『超訳ニーチェの言葉』という本がブームになった。あれはニーチェの考え方と仏教の考え方で共通性がある部分を、うまく掬いとった内容だった。だから日本で流行ったのだと思っている。 ニーチェのいう「永劫回帰」とは、『ツァラトゥストラはかく語りき』の中に出てくる。人は人生が1回だと思っているけれど、本当は何度も同じ「あなた」という人生を、カセットテープやDVDを何度も再生するように繰り返している、それは永遠に続くという考え方である。 生きているときには苦しいことも、歓びも、哀しみも、楽しみもいろいろある。輪廻転生とは仮に一度目の人生で失敗したりつらい感情を持ち越して死んだら、次の人生はそれを回避したり、やり方を変えることでその業を解消できる。それができるまで生まれ変わってやり直せる。それを繰り返すことで、次第に業がなくなり、悟りの世界に至る。 ざっくりと説明したが、これが仏教の考え方である。 でもニーチェの永劫回帰は、永遠にループする世界の中に人は生きるという考え方である。もっとやるせない。救いがない。そこには非情な趣がある。 それでも、あなたはそういうループする世界の中に生き続けることを「つらい」ではなく肯定的に捉えて生きることができますか?――それを受け入れ、その状態を愛するさまをニーチェは「運命愛」と呼んだ。そして、ループし続ける人生は虚しいけれども、その無意味さの繰り返しの中で恨みや妬みといったルサンチマンを持たず、生きていく強さを持つ人、それが「超人」だと定義している(ように思える)。 超人は超越した存在だから、もはや何かにおびえたりもしないし、たぶん感情みたいなものはない。至高の存在であり、それはすでに無と呼んでもいい。信仰心がある人になら神と一体になった、という説明でもいいのかもしれない(ニーチェは教会の在り方を批判し、神は死んだと言っているが、ここでは我流の解釈なのでご容赦いただきたい)。 自分のことを振り返ってみた。 もし人生が永劫回帰だとしても、たとえどんなに過去のつらいことがあっても、同じ人生を生きたいと思う。仏教的な立場で考えるのなら、何度も経験してきた辛さや悲しみといった苦をいつかは受け入れたい。人生を何度もやり直して、やり直す原因の元となる「業」を小さくしていく。 そのためには私(わたくし)である自分のことを優先して行動するのではなく、これまで生きて出会ってきた人、今も付き合いが続いている人、しばらく会っていない人、そしてご縁がなくなってしまった人も含めて、なるべく多くの人を思いやって動く。 そうすれば(自分にとって不幸な)業が起こることは小さくなる。そして業がなくなればこの「輪廻ゲーム」は終わりなのだから、結果、悟りに入るんだろうな、などと感じている。 でも、今は結構みんなに迷惑かけてるから業はまだまだあるんだろうけれど。 ニーチェの考え方も、仏教の教えも「受け入れる」が根っこにある。別に強くなりたいわけでもないし、高みを目指しているわけではないのだけれど、日々起こることは、自分が呼び込んでいることなので、どんなに大変でも、理不尽でも、時間がかかっても、すべて受け止めて、受け入れたいと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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