カテゴリ:生き方
今週2回目の坐禅。京都から高名な師にお越しいただいて、坐禅の指導と法話をしていただいた。
自分のような人間が、こういう場に呼んでもらえることは、本当にありがたいご縁のおかげだな、と思う。 いつも通っているお寺では般若心経を唱えて、坐禅して、いちど足を解いて、またもう一度坐禅をして、公案を聞くという流れなのだが、今回は違った。 法話を聞いて、坐禅して、いちど足を解いて、またもう一度坐禅して、般若心経を唱える。そのあと足のしびれなどをとる目的と、トイレ休憩のために、坐った人全員が、廊下を反時計回りにぐるぐると何周もするのである。これも修行のひとつで、終わると元の位置で正座してお茶を頂く。これが一連の動作になる。 その「ぐるぐる」を行ったときのこと。縁側に出たときに、窓越しに美しい日本庭園が広がっていた。 「美しい庭だな」と思った。都内のお寺なのに一面芝生で青々としていた。窓からの景色は不思議と高層ビルがまったく見えない。いい天気で、まぶしいくらい庭の緑と空の青のコントラストが効いている。趣は異なるが、京都の龍安寺の枯山水を見てため息をついたときと同じくらい、素敵なお庭だった。 1周して、2周目に入るときに「ああ、またあの素敵な庭が眺められるのか」と思った。そうして縁側に出ると、一羽の雀が芝生の上にいた。「雀も気持ちよさそうだな。いい風景だな」と思った。 そして3周目。今度は雀が増えて三羽いた。楽しそうに会話をしているかのように集まっている。 そのときに「あっ」と思った。これが人の輪廻の姿を表しているのかもしれないな、と。 昨日書いたことに関連するけれど、ニーチェの永劫回帰でもいいし、仏教の輪廻の考え方でもそうだけれど、同じことを繰り返していつか気づいて人は超人なり、悟りの世界に近づくわけで、まったく同じであればそれに気づくことはできない。 だからこの庭のように、同じ風景でも、よく観れば少しずつ違う世界は恐らくあって、努力次第で人は気づき、その人生をちょっぴりよく生きることもできるのではないかと感じたのだ。 坐禅が終わってから、場所を移動した。高僧と食事をご一緒することになった。 立食スタイルで、ということだったのだが、師はご高齢なので、椅子に座っていらっしゃた。そのため目が合って挨拶しようとしたときに、私の方が見下ろしている感じになってしまうなと思ったので、思わず膝をついていた。目線がなるべく同じ位置になるよう、でも多少見上げるようになるようにするのが、礼儀だなと思ったのだ。 師は私の坐っている姿を覚えていた。 「坐相がいいですね」 坐相とは坐っているときの姿形のこと。心や呼吸が整っていれば、坐相は乱れないといわれる。最近は心身が疲弊していたのだけれど、今回はものすごく坐った後が気持ちよかったし、高名な師にそう言われて、本当にありがたいことだと思った。 ところで。 食事はいつもよりも会費が高いのになぜ立食?と思っていたのだが、この後その理由が判明した。 久兵衛の板前さんに出張してもらって、鮨を握ってもらうためだったのだ。 ひとり5貫までだよ、といわれてそれを守っていたのだが、「ほら、最後食べなよ~」と周りが言ってくれて、なんかひとりだけ9貫もいただいてしまった(汗) うーん、これならめっちゃ得してしまったような…(ちなみに1貫1200円也)。 ありがたいことだけれど、正直いつも食べているお鮨のほうがずっと美味しいなと思った。何が言いたいかというと、得難い経験の連続を送ってきて、そうやって比較できること、そして得難い良い出会いが続いていることに、心から感謝したのだった。 <お酒メモ> 6月9日金曜日 イタリア ビアンコ 白 2/3本 アメリカ ジンファンデル 赤 1/3本 蒼空 美山錦 2合半 荷札酒 1合 亀齢 純米大吟醸 1合 6月10日土曜日 アサヒスーパードライ 瓶 コップで1つ 白ワイン グラス1つ 赤ワイン グラス3つ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年06月11日 01時06分21秒
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