雅の日記~お気楽生活をめざして

2023/09/05(火)18:42

「知」と「識」

スポーツあれこれ(155)

知識という言葉がある。「知」「識」も「しる」という意味なのだが、知が頭とかデータで理解するというニュアンスに対し、主に仏教で使われる「識る」は「身体で理解する」というニュアンスがある。同じ「しる」でも「知」と「識」の距離というのは結構ひらきがある。 3日のヤクルト×阪神戦で9回に阪神タイガースの1番バッター・近本選手がヤクルトのピッチャーからデッドボールを喰らい、のたうち回ってしばらく動けなかった。数カ月前に骨折した箇所付近であったことからベンチもファンも非常に心配して、球場は一時騒然となった。 この騒動について、試合後ヤクルトの高津監督が、岡田監督にすぐにわびを入れず、ベンチから去ってしまったことで、あとでおーん(岡田監督)が監督コメントその他でチクチクと不満を述べていた。 私も今回の一件は、高津監督がマズったなと思う。監督である自分が頭を下げに行けば被害が広がらなかったのに、それをしなかった。現役時代クローザーだったのに初期消火に失敗したわけである。高津監督は投手出身だからかもしれないが、自軍のピッチャーを庇うことに目が行っていて、ケガした相手とその上司である先方の監督をおもねるというフォローの意識が欠けていたからである。管理職的にはアウトだ。 これは頭で知る「知」で行動したから出たミスだと思う。「識」を働かせればよかったのだ。 「シュートが得意なピッチャーが内角を攻めて打者に球が当たる」。これは起こりうることだ。大差のついた負け試合の終盤では通常このような攻めをするのは「暗黙の紳士協定」で普通しないことにはなっている。大差のついた試合で盗塁しないとかいったのと似ている(ちなみにメジャーでもそういう慣行だ)。 でも敢えてそれをして、相手にケガをさせたのであれば、デッドボールによる進塁というルール以外にすべきこと、つまり「気持ち」を伝えに行くことも、やって損はないと思うし、むしろ「せな、あかん」だろう。あれだけ相手が痛がっているのにお悔やみがいえないのは、ちょっと人間的にどうかなと感じる。 江川卓の『巨人論』(←何を読んでるんだ)にも「僕の現役時代の乱闘は、ヤクルト戦が多かった気がする」と書いてあったが、もともとヤクルトというのはデッドボールが多い。 本の中にはこうもあった。 「僕の引退後を見ても、ヤクルトのキャッチャー古田敦也さんはインコースギリギリを使っていたので、バッターに当ててしまうことが多かった。しかも1回当ててしまうと遠慮して外側に投げさせるものだが、古田さんはそれでもインコースギリギリを突くので、やっぱり当たることがあった。2回当たるとさすがに乱闘は免れない」(第1章P60) この方針が「野村野球の継承」と一括りにされると、岡田好きで野村好きの私はとても苦しい気持ちになる。当てても構わない、謝らないという風には野村さんは指導していないだろうし、何度も生前会ったがとてもそういう人には思えなかった。こっそり後でフォローに行ったり、何らかの方法で詫びを入れるような人だったように感じる。 ただ、岡田さんや広岡(達朗)さんほど凛とした生き方や指導スタイルではなかったから、高津監督はその部分については気が回ってないのかもしれない(致命的だが)。岡田広岡両氏は「原理原則」を大事にする人だと私は感じている。だからこのケースでは「すぐに詫びを入れるのが当たり前やろ」と思ってプンプンなのだろう。 あ、私もすぐ謝る。だって気分良くないもの。

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