発達障害者の家庭問題、子育て困難
本当はもっと早くこの問題は取り上げたいと思っていました。最近「こどもの虐待、致死事件」など痛ましい報道が続いています。この問題に対して、マスコミの報道、世間の意見は「加害者となった親」を非人間的と一方的に責め立てるだけに終始する様に感じます。私自身も、「養育者に恵まれなかったこどもの境遇」に深く同情し、許せない思いで心を痛めます。「最愛のこどもに、どうしてそんなひどいことが出来るのか?」と理解出来ず、加害者へのもっと重度な厳罰を個人的には望むこともあります。しかし他人ごととは言い切れないと自覚しています。 「『中古』育児と療育のための家族臨床心理学家族臨床心理学」という本に、ギクリとさせられる一節がありました。 「仲良く過ごす両親とこども」という一枚のスナップ写真、、、そこには、永遠の安定した幸せが映されている様に見える。しかしそれは、その瞬間だけを切り取った一場面に過ぎず、親が親となる努力を続けなければ、簡単に崩壊してしまうものに過ぎない。 「その瞬間だけを切り取った一場面」<『中古』育児と療育のための家族臨床心理学>この表現のリアルさは、「まぼろしの様に消えてしまったこどもとの生活」「崩壊してしまった以前の家庭」を表すのにピッタリな表現でした。私自身、こどもに愛情があるつもりで、自分なりに頑張って子育てをしている自負がありました。それでも、残念ながら父親として夫として「機能不全」だったのです。子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス) [ 杉山登志郎 ]立派な父親になることを目指した青春時代 私にとって「家庭」とは、思春期の頃から求めているテーマでした。父子家庭で育った私には、当時まともな「家庭観」は持ちえませんでしたが、育っている家庭がどこか足りていないことは理解出来ました。そして、私の10代後半の夢は「立派な父親になること」でした。未熟さを抱えながらも妙に老成したアンバランスさを抱えた奇妙な10代でした。忙しく話もまともに出来なかった父、 相談をしても気持ちが汲み取って貰えない父自分はその様にはならず、「家庭を振り返り、こどもの気持ちを理解してあげられる父親」になることを目指して、思春期を過ごしました。しかし、それでも失敗をしてしまったのです。結局家庭を維持出来ずに、最愛のこどもに私と同じ深い傷をつくってしまったのです。 「発達障害と児童虐待問題」「DSM-5対応ー神経発達障害のすべて」という書籍の中で、「発達障害者と児童虐待問題」について取り上げられていました。 「児童虐待」というと語弊が含まれると思います。もちろん、私も「児童虐待」を意図的にした覚えはありません。その先生も「児童虐待家庭」という言葉には親に対する非難が含まれてるので「子育て困難家庭」と表現した方がいいと断られておられました。その様に主張されると共に、発達障害を持つ人は親自身の社会性の問題、衝動コントロールの問題、機能不全家庭の連鎖などから、客観的に見ると「児童虐待」に繋がりやすいと書かれていました。「児童虐待」と見なされると場合によっては親子の分離が必要となってきます。もちろん、緊急時の介入ではこどもの命を保護するのが一番に優先されますが、引き離したことによる親のダメージ、その後のフォローについては、十分に考えられていないと思います。 これは、他のすべての「虐待法」「DV保護法」において現段階では不十分であり、行政の対応によっては傷を深めている場合も少なくないと感じます。DV加害者が変わる 解決志向グループ・セラピー実践マニュアル [ モー・イー・リー ]私の場合も「児童虐待」した覚えはありませんが、ただ、親としての発達が未熟であり、「機能不全家庭で育った経験」に任せた子育てでは「子育て困難」だったのです。また人生の節目に「変化に対応する柔軟さ」にも欠けていました。ライフステージごとに変化・成長する必要性家庭生活にはライフステージの変化によって多くの試練が待ってています。恋人関係から共同生活への変化、共同生活が破綻しないようにマネジメントしていくこと、こどもが出来て役割が変わること、産前の苦労を分かち合い乗り越える過程の重要性、命の重さを理解する出産、こどもが中心の生活への変化、など多くの方は「両親の家庭観の模倣」で柔軟な対応が可能だと思います。しかし「家庭像」のモデルを持たなかった私には、そんな役割の変化に想像もつきませんでした。一足先に母親となる妻が理解出来ず、親としての役割、立場の自覚が遅れ、周囲から責められはじめて「自分だけが取り残されていった」と気づきました。親子で乗り越える思春期の発達障害 家庭、学校、友だち、進路…将来の不安を減らす本 [ 塩川宏郷 ]昔であれば「イエ」制度のもとで、両親、祖父母、親戚、そして地域で生活のフォローがあったのかもしれません。しかし、核家族化した現在では夫婦だけで家庭生活を送らなくてはならず、私の偏りや歪みは、妻のストレスとなりました。そのストレスは時には痛烈に、私に跳ね返りながら、ジワジワと家庭崩壊へと向かっていきました。発達障害者は、残念ながら家庭観が歪んでいる事は少なくありません。なぜなら発達障害には遺伝的要素があり、両親、親族もまた自覚なく不適切な家庭生活や、無自覚な虐待が行われてきた可能性があるからです。こころの暴力夫婦という密室で 支配されないための11章 [ イザベル・ナザル・アガ ]「暴力とは学習された行動である~」アメリカではDV防止の啓発の為に、この言葉が書かれた大型バスが走っているそうです。そしてその後にはこの様な言葉が続きます。「~そして再学習が可能である」「機能不全家庭」はそのままでは、子に孫にと連鎖をしてしまうそうです。しかし「機能不全家族」であることを自覚し努力をする中で、その連鎖を止めていくことは可能なのです。私は後に再婚しましたが、まだ「機能不全」の中にいると実感します。しかし、深い反省と学習、妻との協力のもとで、 以前より「こどもが育てられる様に変えられた家庭」を実感しています。その内容については、またいずれかの機会にお伝えさせて頂きます。続・発達障害者の家庭問題、子育て困難は以下画像より。リンク先:発達障害者である専門職のREドメスティック・バイオレンス新版 男性加害者の暴力克服の試み (岩波ブックレット) [ 草柳和之 ] にほんブログ村にほんブログ村発達障害ランキングその続きはこちら「発達障害者である専門職のRE」行政相談員、児童指導員として働いてきた経験から実践的な発達障害支援情報をお伝えしています。