シュガーロード長崎街道
長崎街道は、江戸時代に整備された脇街道で、小倉から長崎に至る57里(223.8km)、途中25の宿場が置かれた。黒砂糖しかなかった当時、白砂糖は貴重で、その砂糖を長崎から本土に運んだため、砂糖街道(シュガーロード)とも呼ばれる。大名行列・オランダ使節・シーボルト・伊能忠敬・勝海舟・坂本竜馬・吉田松陰・高杉晋作など世界と日本の最先端の情報を求めて行き来している。街道沿いには、全国的に有名なで伝統ある菓子屋が数多い。砂糖が街道を通って運ばれていく間に、すこしずつ袋から零れ落ちていったのだろう。口の悪い人は泥棒横流し街道とも言うらしいが、オランダの菓子文化とともに、沿道の食文化に影響を与え、職人や商人たちの工夫で様々な菓子に形を変えていったことは大いに評価できる。特に、福岡藩とともに長崎の警護役を務めていた佐賀鍋島藩は、菓子王国と呼ぶに値する菓子処の宝庫といえる。佐賀錦、丸芳露(まるぼうろ)、逸口香(いっこっこう)、小城羊羹(おぎようかん)。佐賀銘菓の数々は、近世以降の菓子文化のルーツともいわれ、今も銘菓としての呼び声が高い。佐賀藩ではそうした食文化とともに、江戸末期には文明開化、近代化への道をまっしぐらに進んだ。まねのできないスピードと日本人の感のよさが発揮され、一藩で当時の幕府軍に匹敵する軍備を有した。ライフル5,080丁、大砲394門を輸入したり、自藩で製造したのだから驚く。長崎と長崎街道により、常に刺激を受け、その都度形を変えた熱意を発揮した。明治維新の戊辰戦争で官軍が幕府軍を圧倒した原動力にもなったことは間違いない。佐賀武雄の出身の保険仲立人アライアンスの仲間がいるが、彼を見るたびに、明治維新の熱意とパワーの源流が伝わってくるようで、刺激を受ける。長崎街道 眼鏡橋