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ずっと読んでいたら
地図にない日本が見えてきた。 まったく違う日本列島が見えてきた。 正確に。 第152夜『やくざと日本人』猪野健治 終始、感情を抑えた、正確に伝えるためのこの文章。 やくざに特別興味があったわけでもないのに興奮して読んでしまったのはいったいナゼだろー。 猪野健治さんはもともと詩人からスタートしたジャーナリストだ。 その詩人猪野さんの確信に“伝わらなければ詩ではない”というのがある。 現在フリージャーナリストである猪野さんの確信は“ナゼがなければジャーナリストではない”である。 詩が“伝える”で報道が“ナゼ”。 なんだか今では真逆に聞こえる。 ここに詩というものと微細かつ膨大な調査というものが裏腹であるという重要な指摘がある。 戦国末期の下克上風潮に胚胎したカブキ者は、徳川時代の旗本奴、町奴になった。それが火消し人足に引き継がれて、やがて関八州を中心とする博徒になった。そこから民権博徒が生まれて、やがて近代やくざ現代やくざに繋がっていく。そんなやくざはじつは明治維新をはじめ、つねに日本の国づくりの要になっていた。 そしてやくざはどんな時代にも危ういものに触れる存在だった。 ここに魅かれる。 やくざは土地を持たず縄張りという危ういものしか持たない。ときに火という危ういものを消し、ときに賭博という危うい運に身を任せ、ときに情報という危ういものをネットワークする。 この危うさに親しみを感じる生き方を 忘れることこそ危ういか。 これは 雉が蛇に巻きつかれている図ではない。雉が蛇に巻きつかせている図。 雉は蛇が自分に巻きつき終えた瞬間翼を広げて、それを刃物にして蛇を切り裂くのだ。 北斎が好んだ図。 刺青にいかがで。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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