■「生む機械」と格差社会と野蛮■
前々々回くらいにも指摘したが、格差が広がれば、既得権益の強化が図られて、動物的世界が求められるようになる。ホッブズの「主権」は、「万人の万人に対する戦争状態」を克服するために、互いに自由を放棄しあうことで達成するものだった。そこには、社会契約という理性の産物によって、野蛮を克服する思想が含まれていた。だが今この国では、明らかに野蛮が目指されている。前々々回の指摘は、格差社会では「一夫多妻」が求められるというものだったが、それは「野蛮化」した世界においては、力弱い者たちが、道具的に動物的に扱われることと対応している。少子化対策の責任者が発した言葉は、そうした社会への動きを見事に内面化し、反映したものだったということができるように思う。「言葉に注意するように言った」とか「反省している」というものは、弁護にも弁解にもならない。そうした考えを持っているからこそ出てくる言葉だからだ。そうした考えを持っている人間を外さないとなると、安倍という人間もまた、そうした考えを心には持っていると考えて良さそうだ。前回も書いたが、政治の仕事は、常に「絶えざる問題解決」、つまり、何かの是正であって、そうした小さな努力の連続であるはずだ。だが、安倍はそうした小さな努力を放棄しようとしている。教育や憲法を変えれば、何かが完成すると信じている。これは安倍が嫌う、「革命が起これば何かが完成する」という(誤解に基づく)考えと同じではないか。「生む機械」という言葉は、少子化対策において、女性を道具として扱う思考に依存している。そうした「女性は手段」的発想においては、個人の尊厳などは軽んじられ、「一夫多妻」だって肯定されるだろう。弥生より縄文がよかった。俺はそうした保守的言説に賛成する。弥生時代、支配層では一夫多妻が行われており、また、犯罪者の処刑は皆の前でみせしめにされた。今、個人の尊厳の価値が低く見積もられる時代に入ろうとしているのかもしれない。そうした野蛮な考えの人間が政治を行う現状にNOと言えるだけの人間であるのか、われわれは試されている。