■極刑にしてほしい■
まずはこの記事。秋田県藤里町で昨年4、5月に起きた連続児童殺害事件で、殺人と死体遺棄の罪に問われた畠山鈴香被告(34)の第6回公判が31日、秋田地裁(藤井俊郎裁判長)で開かれ、前回に引き続き、弁護側の被告人質問があった。畠山被告は「(殺害した米山)豪憲君の遺族にどう償うのか」との質問に対し「米山さんの望む通りの刑を望みます」とし、「命をもって償うということか」と聞かれると「はい」と答え、その後の質問にも「極刑にしてほしい」と述べた。 畠山被告は逮捕後、拘置所内で、「取調室からたばこを持ち出して4本食べた。致死量は3本と知っていた。吐き気がして、2、3日口がしびれただけだった」と述べた。また、タオルで自分の首を絞めたり、鏡を割って腕を傷つけたほか、ボディーソープを容器の3分の1ほど飲む--などの行為を今年8月まで続けたことを明らかにした。 また、長女彩香ちゃんの死後、情報を求めるビラを配ったが警察が動かないことにいらだち、「藤里町か(隣の能代市)二ツ井町で子供を車に乗せ、防犯スプレーなどで目が見えない状態にして放置しようと考えた」と述べた。さらに、自宅近くを歩く児童らの姿を見て、子供の事件を起こせば警察が動いてくれるとの思いを強め、5月16日と豪憲君の殺害事件当日の17日の2日間は「子供を探しながら藤里町などを車で流した」と語った。【百武信幸、岡田悟】■「極刑を求めたい」心情極刑を求めるということ。俺はここで二つの意味を重ね合わせている。「被告の極刑を求めること」と「自らの極刑を求めること」。この二つの間には、実はたいした違いがないんじゃないかと疑っている。自傷と他傷が紙一重であるように、「極刑」という言葉には紙一重の、相反する感情が混在している。ここに自己と他者の境界のゆらぎが現れているように思う。このことを考えたいわけだ。しかし、世間の憎悪を一身に引き受ける<被告>が、自らそれを求めるとき、それを求めていた者はどのようにそれに対して「反応」するのだろうか。■極刑の政治性極刑の政治性について考えておきたい。といっても、極刑の存在は政治的意図の結果である、ということを述べたいわけではない。憎悪にもステートマンシップが必要だということを述べたいわけだ。被告人に対して憎悪を発し続ける小さき存在。それが「○○を殺せ」の主体になるには、「代議士」が必要だ。明確に論理正しく憎悪を表現できる軸。これがあって、「声」を発することのできない小さき者たちは、憎悪を継続することができる。「主張」することができる。自らの感情をもてあます者たちは、そうした「代議士」が自らを代表してくれるように感じる。死刑を求める声というのは、小さき者たちの承認欲求に根ざしている可能性は大きい。■二重のステートマンシップしかし、実のところ、極刑を声高に叫ぶ者たちは、憎悪を発する主体に代表してもらっているだけではなく、憎悪を引き受ける主体にも代表されているのではなかろうか。というよりも、憎悪は、そうした二重性の上にこそ成立しているのではないか。冒頭の記事の<被告>は、ひとつの「代表」ではないか。生きていくのに不安を抱えた小さき者、承認の不在がそのまま存在の不安になっているような小さき者、この<被告>がはじめに訴えたかったのは、「承認」=「世界からの/への愛」だったのではないか。警察に訴えたかった。しかし、彼らはネグレクトとした。ネグレクトされた子どもがダダをこねるように、主張はエスカレートした。<被告>はわれわれの中の「小さき者」を代表する。さて、普通ならば、この弱き<被告>に自らを重ね合わせた小さき者たちは、これを拒否しようと努力する。自分は弱くないと訴えたい。しかし、その構造をいかんともしがたい。そのとき、「代議士」はそれを論理的に「外部化」してくれる。小さき者たちは、その「外部化」に参加することで、安心することができる。はたして、憎悪が生まれる。彼らは極刑を求めているわけではない。自らの内の「小さき者」を憎みつつ、それを表象できないもどかしさにあわてながら、たまに見つかる「対象」にステレオタイプな「表現」をするわけだ。■犯罪者=聴衆?さて、この二重のステートマンシップの主体がひとつの身体だった場合どうなるのか。つまり、<被告>が自ら死刑を求めた場合である。これにもいくらかの機制が存在するように思える。ひとつは、忘却。おそらく、光市の殺人事件と比べて、この殺人事件は盛り上がらないだろう。これは、被告の反省の有無などではない。小さき者たちの単純な防衛機制である。そしていまひとつは、赦し。これを受け入れることで、自らの弱さをも受け入れようとする態度もあらわれよう。実は、ここにキリスト教的救いの原形があるような気もする。犯罪者に自らを重ね合わせ、かつその犯罪者が実は犯罪者とは対極の存在であるということを信じることで、自分の罪(というか小さき存在であるということ)を軽減する。いずれにしても、こうした<被告>とステートマン(代議士)の一致は、いろいろなことを明らかにする。■死刑囚のステートマンシップ「Shot in the heart」という重要な著作があった。ゲイリー・ギルモアは、法廷で自ら死刑を求めた。その州では死刑執行が停止されており、事実上、死刑廃止状態だったにもかかわらず、ゲイリー本人の主張から死刑になった。死刑を自ら求めるとはどのような意味を持っているのか。いろんなところで、この記事に絡めて引かれそうだが、アルベール・カミュの『異邦人』の最後を記そう。あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。ムルソーは、憎悪によって、世界とつながる。というよりも、われわれこそが、憎悪によって、ムルソーとつながっている。