日記はこれから書かれるところです。

2005/10/25(火)03:51

■「靖国」から民主主義を逆照射する■

政治あるいは自由論(187)

以前「靖国問題」「カタルシス改憲論批判」で書いたことを敷衍し、「靖国」的視座から民主主義というものに迫ろうと思う。何度も述べているが、「靖国」は全体主義の遺産であり、原理的に「民主主義」と相容れない。この問題を横目に見ながら日本は民主主義国であるといえるとすれば、それは知的体力が無いか、知的に不誠実かのどちらかである。 また、「靖国」を積極的に擁護しながら「言論の自由」を唱える蒙昧がいるが、それは完全なる矛盾といえる。すべての権利を肯定できない地平においてしか「靖国」は擁護できないはずである。このことを開示していきながら、われわれは民主主義をどのような理由で求めるのかに迫ろうと思う。 ■宗教とは何か 本論にいきなり入る前に、「宗教とは何か」について考えておこうと思う。 これは現代民主主義を考えるうえで、そうしたセマンティックな(意味論上の)議論は避けて通れないのかもしれないと考えるからである。 この問題意識は、鶴見俊輔が「日本人の多くは名前を与えればわかった気になる」と、まさに全体化社会への危機意識を持ちつつ、語ったことに共感したことから発している。 「宗教とは」というとき、そこに仏教やキリスト教やイスラム教や神道をあてたところで意味が無いことは言うまでも無い。われわれはそれらだけを「宗教」と呼んでいるわけではないからである。まさか国が認めたものだけを宗教と呼ぶなどとは誰も言うまい。 では、どこまでを宗教と呼ぶのか? 同じ宗教内であっても、個々人の教義解釈は異なりうるし、新たな信仰対象を生み出すことだって可能であろう。こうして考えれば、宗教とは個々人の数だけ多様であるはずだ。つまり、宗教とはその個人の選好や趣味の総体なのである。 この地点において、20条「信教の自由」は19条「思想及び良心の自由」を補完するものと捉えるのが正しい。つまり、歴史的に最も「思想及び良心の自由」を侵害しやすかった宗教と国家の繋がりをわざわざ20条でダメ押ししているのである。 19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。 20条 (1)信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。 (2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 (3)国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 宗教と聞いて、既存の名前付のものしか思い浮かばないというのは、想像力の欠如以外なにものでもないということがわかればここはそれでいい。 ■憲法の名宛人 この国の首相が国会での答弁においておかしなことを言ったらしいが、憲法の名宛人は国家である。すなわち、19条も20条も国家への命令である。 もしそこを国家の首長たる人間が「個人の自由」として語ったのであれば、人として頭が悪すぎるのか、あるいは政治家として無知=無恥すぎる。 この場合、19条=20条は国家的機能と絡み合った「靖国」が、われわれの良心の自由を侵害することを禁止する条項と捉えるべきであるのに、そうした権力の働きを無視しているわけだ。 何度も繰り返すが、個人的自由を歴史的に侵害しやすかった国家権力への縛りが憲法テクストなのである。 こうして考えれば、政治権力による道徳教育や、国旗・国歌の強制も、十分に違憲なわけだ。 ■「靖国」は「日本人」に強制できない 「靖国」の問題は、靖国神社が1869年に東京招魂社として創建された明治国家による明らかな人工物であるのに、まるでこの国の伝統であるかのように物言いされるところに表れている。 「カタルシス改憲論批判」で書いたことでもあるが、「日本人ならば靖国を参拝するべきだ」という物言いは成立しない。 伝統や文化という輩は、上の事実を意図的に無視しているのか、あるいは、端的に頭が悪いのかどちらかだ。百歩譲って(譲る必要があるとは思えないが)、神社が「日本」の伝統であるとしたところで、靖国神社が「その」神社と同一系譜にあると言うのはおかしい。 これは、先に挙げた「名前が一緒だから同じはずだ」という「意味論の毒牙」に蝕まれているからに過ぎない。 まあ、伝統でさえ個人的「良心の自由」を強制することができないというのが、現代民主主義=立憲主義の精神なのであるが。 ■「靖国」の問題 「靖国」の一番の問題は、国家によって作られた靖国神社自身が「良心の自由」に基づいた「合祀取り下げ」を教義的理由から受け入れていないことだ。明治時代的論理に則り、見事に現代民主主義体制と抵触しているわけである。 高々歴史136年の新興宗教が、ここまで依怙地になっているのは単純な話で、現代民主主義体制を受け入れていないからである。 現代民主主義の否定をして、はじめて靖国神社足りうるわけで、そこに国家が関わるのであれば、歴史的にも特筆すべき違憲行為ということになろう。 つまり、冒頭で述べたように、「靖国」の論理は、現代民主主義=立憲主義の価値である「人権」を放棄してはじめて可能になるものなのである。頼むから「言論の自由」などを持ち出す不誠実な態度はやめてほしい。そして、似たものとして、フセイン体制や金正日体制を支持してほしい。 ■改憲? 自民党はこうした「政教分離原則」を憲法から外すことを考えてきたし、今なおそうしようとしている。言うまでも無く、それは現代民主主義=立憲主義を捨てることに他ならない。 察しの良い方ならお分かりだと思うが、「政教分離原則」は憲法の根幹部分にあるわけだ。自民党のやろうとしていることは、戦前の状態に戻そうということであり、個人的権利に価値を置かないということなのである。 ■なぜわれわれの歴史は<民主主義>を求めてきたのか 現代民主主義の最も重要な要件は、個人主義である。これは日本国憲法においても受け継がれており、その権利カタログの最初に位置する13条において高らかに宣言されている。 「個人として尊重される」権利が保障されていることの価値をわれわれは忘れがちである。特に多数派に所属するとき、少数派に属する者が傷ついているのに気付かないことがある。また、時には自分が酷い少数派になる場合だってあることが想像できていないだけである。 すべての権利を放棄できるものだけが、「靖国」を認めることができる。 最後にアメリカの法理学者ドゥウォーキンの言葉を引こう。これは「アヴィニョンの子供達」さんからそのまま借りる。どこからの引用かわからない(恥)。 我々は尊厳を尊重するが故に自由を主張し、かつ良心の権利をその中心におくのであり、したがってその権利を否定する政府は、他方でたとえより重要でない選択の自由をいかに我々にゆだねたとしても、彼らは全体主義者なのである。我々は尊厳を尊重するが故に民主主義を要求するのであり、したがって我々の定義によれば、良心の自由を拒否することを多数派に許す憲法は民主主義の敵であり、民主主義の創造者ではないのである。―ロナルド・ドゥウォーキン

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