|
カテゴリ:制度あるいは教育論
いよいよデューイに手を付け出すわけだけれども、当初の予定とはちょっと変えることにした。俺は、すぐに方針を変える。寝返りもする。そう、柔軟なわけだ。
■集中学習と分散学習、全体法と部分法 認知心理学の知に与ろう(といっても、ただの受け売りだけれども)。 心理学の学習概念において、時間間隔を置かずに学習することを集中学習といい、時間間隔を置いて学習することを分散学習というらしい。 さらに、はじめから終わりまでまるごと学習することを全体法といい、部分に分割して部分ごとに学習することを部分法というらしい。 集中学習よりも分散学習が、部分法よりも全体法が、一般的に効率的だと言われているようだ。(以上、ちょっと中途半端だがこちら参照。) たしかに、受験社会を生きた人間にとっては、なんとなく理解できる結論ではある。概念理解を必要とする勉強では、積み上げ式より上塗り式の勉強の方が明らかに効果的だったように感じる。 というわけで、デューイ『民主主義と教育』に関しても、まずはさらっと上塗りするのを目指し、一度目は適当にちょっとずつ纏めていくという方法を採ることにする。一度、読み切って、また戻ってこよう。 ■第一章 生命〔ライフ〕に必要なものとしての教育 『民主主義と教育』には各章ごとに要約がついているので、一度目の読解においては、要約を読んでいくだけにする。 【要約】 生存を続けようと努力することは生命の本質そのものである。この存続は、不断の更新によってのみ確保されうるのであるから、生活は自己更新の過程である。教育と社会的生命との関係は、栄養摂取や生殖と生理的生命との関係に等しい。この教育は、まず第一に通信〔コミュニケーション〕による伝達にある。通信とは経験が皆の共有の所有物になるまで経験を分かちあって行く過程である。通信はその過程に参加する双方の当事者の性向を修正する。人間の共同生活のあらゆる様式の奥深い意義は、それが経験の質を改良するために貢献することにあるのだが、そのことがもっとも容易に認められるのは未成熟者を扱う場合である。すなわち、あらゆる社会制度は事実上教育的であるけれども、その教育的効果は、まず年長者と年少者の共同生活との関連において、共同生活の目的の重要な部分となるのである。社会がいっそう複雑な構造や資産をもつようになるにしたがって、制度的〔フォーマル〕なつまり意図的な学習の必要性が増大する。制度的な教授や訓練の範囲が拡大するにつれて、直接的な共同生活において獲得される経験と学校において獲得されるものとの間の好ましからざる裂け目が生み出される危険が生ずる。この危険は、この二、三世紀の間における知識および技術の専門的な様式の急速な進歩のゆえに、今日、これまでになく大きなものとなっているのである。 読みにくいな。 ちょっと纏めてみると、 生存を続けようと努力するのはライフの本質。→不断の更新によってのみ確保される。→ライフは自己更新の過程。 「教育→社会的生命」ってのが「栄養摂取/生殖→生理的生命」と等しい関係。 教育⇒コミュニケーションによる伝達(経験を皆の共有の所有物にする過程)→参加する双方の当事者の性向を修正。 人間の共同生活のあらゆる様式の奥深い意義は、経験の質の改良に貢献することにある(未成熟者を扱う場合に容易に認められる)。 あらゆる社会制度は事実上教育的。→その効果は、年長者と年少者の共同生活における目的の重要部分。 〔教育効果こそ共同生活の目的だということか〕 社会の複雑化 → フォーマルな教育(意図的な教育)の必要性増大 → 結果、共同生活の直接的経験とフォーマルな伝達との裂け目の危険(この二、三世紀の間における知識と技術の専門的な様式の急速な進歩のゆえ)。 ってなわけで、教育は社会的ライフにとって必要であるらしい。そして、教育ってのはコミュニケーションによって行われ、それは参加する当事者の性向を修正するもののようだ。このコミュニケーションによって成立する共同体の奥深い意義は、経験の質の改良にあり、それは年長者から年少者への伝達にあるらしい。社会の複雑化がフォーマルな教育を必要とするが、その結果、共同生活と教育とが同一であるということを無視し、教育の概念を読み書き能力の習得と同一視する(矮小化する)ことになってしまう。だからこそ、フォーマルな教育とインフォーマルな教育の正しい均衡を保持する方法こそ、教育哲学が取り組むべき課題である。ということらしいな。 繰り返しただけだな、俺。 しかし、読みにくい文章だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.02.01 08:21:22
コメント(0) | コメントを書く
[制度あるいは教育論] カテゴリの最新記事
|