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カテゴリ:経営あるいは本業論
ナイーヴな成果主義概念。ナイーヴな成果主義理解。ロウアーミドルは、ナイーヴに成果主義的思想を好む。
じっくりとした思考を停止させ、「賭け」に出たい。もう、自分の人生を運に任せたい。自分でじっくり考えるのはシンドイ。 ナイーヴな成果主義を好む人間は、ナイーヴに政治家を選び、ナイーヴに占いを求める。大変な社会を誘導し、大変な社会に失望し、大変な指導者を選出する。 問題意識はここにある。ちょっと旧いが「成果主義」の問題構造を語る。 ■経営書における成果主義の概念 成果主義ってのは、能力主義との対概念だ。 素朴な成果主義は、能力とは関係なく、成果だけで給料を決め、役職を決める。 素朴な能力主義は、成果とは関係なく、能力だけで給料を決め、役職を決める。 どちらがいいか? 対概念においてはいつでもそうだが、実はどちらも同じことを言っているに過ぎない。 同じ土俵に乗っているということは、議論の大前提としての「破れ目」があり、そこにこそ本当の問題が隠蔽されている。 というわけで、成果主義=能力主義という二項対立を脱構築していこう。 ■成果主義者? 「信長の野望」ってゲームがあった。 これをやって育ったやつらが昨今の企業家ブームを支えてるんじゃないかと疑ってる。 まあ、ともかく、成果主義者と言ったって、本当にそうか考えてみりゃわかる。「信長の野望」を素朴な成果主義でやったかどうかだ。 恐らく、成果(勲功)よりも、能力(パラメータ)で、重宝する武将を決めたのではないか。(もちろん、能力を基準に活躍機会を与えるわけだから、結果的に、そいつらに勲功も溜まっただろうが。) まあ、素朴な成果主義でものを考える人間なんてあまりいないわけだ。 そして、もし本気で成果主義を採ろうと思えば、公平な機会が絶対条件になるわけで、それはそれで実際問題不可能に近い。 ■能力主義者? 素朴な能力主義を採るにしても問題がある。 ふつう能力ってやつは見ただけじゃわかんないわけだ。 そこで、能力を測るために、成果を観るってことになる。これは成果主義と変わらない。 素朴な能力主義も、成果主義が主張される前提と変わらない前提から出てきており、概念としての素朴な能力主義が実際は不可能である(パラメータついてないし)以上、これはもはや成果主義と選ぶところがない。 ■隠蔽されている問題 能力主義=成果主義という枠組みでの問題設定は、「時間」と「環境」の要素を捨象して語られる。 良い環境で働けばハイ・パフォーマーになれる人間が、その(悪い)環境ゆえに落伍者になることがあるし、また、修行期間をおけば、驚くべき成長を遂げて活躍できる人間が、早くから成果を求められ(能力を示せと言われ)て周りに助けられずに落伍者になることがあるってことである。 つまり、かつてあったはずの何かが無くなって、はじめて成果主義や能力主義という用語が世に出てきたわけだ。 ■なんで「成果主義」が流行ったか? さて、良い環境で、皆がそれぞれ普通に働いても、ちゃんとシステム立っていて、会社として業績が出ているのであれば、そもそも「成果主義」なんて必要なかったはずだ。誰もが普通に働き、誰もが給料が上がっていたはずだ。 流行った時期を見ればわかる簡単な話なのだが、会社が「仕組みとして」機能しなくなったのが、「成果主義」の「導入」のきっかけだった。そして、給料のベースアップが起こらなくなった後、(会社社会的弱者である)若者が感化されたのが「流行」のきっかけだった。 これは実は、現代における国家の問題と同じ構造をもっている。 ■なんで最近「セキュリティ」が言われるのか? 「地域自警団」とか流行ってるのをみて、俺は怖くなる。 あれを見て安心する愚かな主婦たちは、もっと危険な世の中を呼び寄せているのに気付いてないのだろう。ああ、こわ。 セキュリティ国家というのは、国家の役割として「セキュリティ」がクローズアップされている状態のことを言う。つまり、あなたを「危険な外国人犯罪者」や「危険な猟奇犯」から守りますよ、というメッセージと共に現れる。警察国家というやつだ。多少の人権は制約しても、「中上流階級」の安全は守りますという思想である。 歴史的逆行。 さて、これが、根源的に、問題への解決不能なアプローチであることは、数学が得意でなくても、ちょっと考えればわかる。 このアプローチは、市民社会を「分断」し、共同体内部に「危険な他者」を想定することによってのみ可能だ。そして言うまでもなく、その「分断」は格差を生み、また新たな「危険」を生み出す「温床」を作ってくれるわけだ。 さて、なんで「セキュリティ」が言われるようになったかを語ろう。 簡単な話で、それまでの支持を得ていた「福祉国家」が成立しなくなってしまったからだ。 「福祉」を謳うことで支持を得てきた国家権力が、財政的にその方法を維持することができなくなり、より安価な施策の「セキュリティ強化」を訴え始めただけなわけだ。 そして、そのような動きは耳目を集めるから、マスコミも取り上げ、集団洗脳的自体が加速していっている。 ■企業の失敗と国家の失敗 しかしどうだろう。企業と国家。驚くほど構造が似てないか。 お前の経営のミスで、給料のベースアップができなくなった。それを成果主義っていう、社員の責任に摺りかえるのか? お前の政治のミスで、負債がたまった。それを民営化っていう、民間の責任に摺りかえるのか? 自己責任なんていう言葉が流行ったのも、見事に時期を一緒にしている。 ■言葉の魔術 しかし、この問題状況を把握もできずに、うまく騙される、かわいいやつらもいるわけだ。 「成果主義」に飛びつき、「民営化」に飛びつく。 まるで、その語がすべてを解決してくれるのではないかと期待する。 ■「信長の野望」的社会はいいのか? 俺は「頑張ってる人が、報われる社会」などという妄言を断固拒否する。 頑張らないでもすむような企業や、頑張らないでも安心できるような国家であるべきはずなのに、そうした妄言は、責任を弱者に一気に転嫁する。 企業経営においてだって、現場に無理がいかない仕組みをつくるのが「経営」の仕事であって、それを失敗したから、お前等頑張れというのはおかしいだろ。 同様に、安心して働き、安心して子どもを育てられる経済共同体であるべきなのに、政治の再分配機能がうまくいかなくなったからといって、自己責任を連呼し出すのはおかしいだろ。 成果と能力が求められる「信長の野望」的社会になっているわけだ。 お前の失敗なだけなのに。 ■権利と義務、再説 頭の悪い奴ほど、権利は義務の対価だと言いたがる。 以前も書いたが、非常に封建社会的理解をしているわけだ。「信長の野望」的社会だ。 恐らく、そのような言を吐く人間は、世の中に、身体の不自由な人たちがいるということをわからないのだろう。知的にハンディキャップを持っている人たちがいることをわかってないのだろう。 彼らが何かを権利として主張するのに、君は俺ほど義務を果たしてないからダメ、とか言うのだろう。 経済は経世在民。そして、俺は政治の最も大切な機能を、所得の再配分だと考えている。 経済でも政治でもいい。うまくできていれば、「自己責任」なんて問題は生じないし、権利を義務の対価にしようなんてする愚か者もいなくなるはずだ。 権利の歴史というのは、そうした平等を求め続ける歴史であるはずだ。俺はこの歴史に参加する。 ハンディキャップトは死んでもいいと考えられるやつらと断固戦う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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