日記はこれから書かれるところです。

2006/02/13(月)21:59

■サルマン・ラシュディのための祈り■

今日の言葉(28)

ポール・オースターは俺の好きな作家だった人の1人で、というのは、好きな作家のことは好きな人のことと同じく書けないもんで、とりあえず、好きな作家だったという言い方をすることにしてるんだが、というのはたぶん、好きという語に付き纏うチープさというかが、俺の気持ちを表象するには物足りないのだと俺がえらそーに思ってるからかもしれなく、それはまるで、好きなコのことを好きだったと婉曲に言い回すことによってはじめて言明できる類の心理学かもしれないし、あるいは、いまやそのときの気持ちをまさにその時の熱において語ることができないからかもしれないのでもあり、しかし、いずれにしても、時間的に事実として残るものはあるわけで、俺のポール・オースターとのかかわりは、それこそ「韻を踏む」ような偶然的で啓示的な出来事に満ちていて、今でも俺の転機においては、彼の書は語らいあうに足るものだということは自信を持って言えるわけだ。 オースター作品との出会いや啓示的出来事についてはもう忘れたということでそれくらいにして、俺はあることがきっかけで、オースター作品は原書でいくつか読んでいるのだが、そのなかの一つに『The Red Notebook』という、その名にもかかわらず緑のペーパーバックの作品があったのだけれど、今アマゾンで調べてみると、それは違う表紙になっていて、なんだか不思議な気がしながら、しかし、それもまた一興と、予定通り、その中に所収されていた「サルマン・ラシュディのための祈り」を、俺の恐らく誤りだらけで半分は当時の気持ちが反映されてしまっている拙訳にて紹介することにする(この点、批判の類は受け付けない笑)。 ■■■ 私が今朝ものを書こうと腰掛けて、はじめにしたことはサルマン・ラシュディについて考えることだった。私はこのことをほぼ四年間半毎朝おこなってきたので、それはいまや欠くことのできない日課の一部になっている。私はペンを取って、ものを書き始める前に、海の向こうの友なる小説家について考える。私は彼がもうあと二十四時間生き続けるようにと祈る。私は彼を保護するイギリス人たちが彼を殺そうと現れる人たち――すでに彼の本の翻訳者の一人を殺し一人を傷つけたのと同じ人たち――から彼を隠し続けるようにと祈る。何よりも、私はこうした祈りがもはや必要なくなるとき、すなわち、サルマン・ラシュディが私と同じように世界中の表通りを自由に歩けるときがくるようにと祈る。 私はこの男のために毎朝祈っているのだが、心の底では、私はまた自分自身のためにも祈っているのだと知っている。彼の人生は彼が一冊の本を書いたために危険に曝されている。本を書くということは同様に私の仕事でもあって、私はもし歴史の巡り合わせや単なる目に見えない幸運がなかったなら、彼の立場でありえるのだということを知っている。今日でないとしても、もしかすると明日。私たちは同じクラブに所属しているのだ。ひとりぼっちの者たちと、こもりっきりの病人たちと、つむじ曲がりの者たちの、つまり、時間の大半を小さな部屋に鍵をかけて一ページに言葉を書きつけようと奮闘するのに費やす男や女たちの秘密の社交クラブに。それは人生の一つの風変わりな生き方であって、ただそのことに対して選択肢を持っていなかった者だけがそれを天職として選ぶのだろう。それはあまりに骨が折れ、あまりに割に合わず、あまりに失望にあふれているので他のだれにも適さないのだ。才能が異なり、野心が異なっても、有能な作家なら誰でも同じことを言うだろう。一編の小説を書くためには、言わなければならないことを自由に言えなければならないと。私は私が書いたすべての作品にそうした自由を行使してきた――そしてサルマン・ラシュディも同様なのだ。そうしたことが私たちを兄弟にし、彼の苦境がまた私のものでもある理由となっている。 私は彼の立場で私ならどのように振舞うかを知ることはできないが、それを想像することはできる――あるいはすくなくとも想像しようと努力することはできる。正直なところ、私は彼が示し続けている勇気を私だったら示せるかどうか自信がない。その男の人生は台なしになっているが、それでもなお彼は彼がそれをするように生まれついた事柄をし続けている。ある安全な住まいから次の安全な住まいへと移され、息子から遠く離され、保安警察に囲まれながら、彼は毎日机へと向かい書きつづけている。最良の状況下でさえこのことがどれほど難しいことか知っているから、私はただ彼の成し遂げてきたことを恐れ敬うだけだ。一冊の小説、他の作品内のもう一つの小説、表現の自由への基本的な人間の権利を擁護する多くの並外れた論文や講演を。すべてのことが十分注目に値するが、本当に私を驚かせることはこうした重要な仕事に加えて彼が他の人たちの本を批評する時間を取り続けていることだ――ある場合には無名の作家の本の販売を促進する帯広告の文を書くための時間さえ。彼の立場にいる者が自分以外のだれかのことを考えることは可能なのだろうか? 可能なのだ、明らかに可能なのだ。しかし私は私たちのうちどれだけ多くが彼と同じような状況に追い詰められて彼がなし続けていることをできるのか疑問に思う。 サルマン・ラシュディは自らの人生のために戦っている。その奮闘はもう五年近く続いていて、私たちはファトゥワが最初に宣告されたときよりも解決に近づいているわけではない。他の多くの人たちと同様、私も何か手助けできることがあればと思う。無力感が募り、絶望感が広まり出すが、私には外国の政府の決定に影響を与える権力も影響力もないことを思えば、私のできる最大限のことは彼のために祈ることなのだ。彼は私たちすべての重荷を負っているから、もはや私は彼のことを考えることなしには私のすることについて考えることはできない。彼の苦境は私を集中させ続け、私の信条を再吟味させ続け、私が享受している自由を当然のことと思わないようにと言い続けている。それらすべてのために、私は彼に感謝の気持ちという莫大な負債を負っている。私はサルマン・ラシュディがその奮闘において彼の人生を取り戻すよう応援するが、本当のところは彼もまた私のことを応援し続けてきたのだ。私はそのことで彼に感謝したいと思う。ペンを取るときはいつでも、私は彼に感謝したいと思う。 1993 ■■■ もう10年以上も前の祈り。サルマン・ラシュディを知らない人もいるだろうか。今の世界状況において、これを書く意味はなにかあるんだろうか。偶然が韻を踏むことはあるんだろうか。 もしかして、俺の念頭には「ムハンマド風刺画」問題があるのかもしれない。 「ムハンマド風刺画」については、「Fixing A Hole」さんの記事。考察も示唆に富んでいる。 サルマン・ラシュディについてはここがいいかな。 「悪魔の詩―Wikipedia」も参照。 俺の心の中の問題として、この問題が過激にならず先鋭化しなかったのは、サルマン・ラシュディが「ブリジット・ジョーンズの日記」に本人役で出演してたのを発見したからじゃないかという雑感も記しておく。

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