|
カテゴリ:政治あるいは自由論
『国家の品格』が売れているとのことで、そして盟友renqing氏が書評を載せられたとのことで、アマゾンやbk1を覗いてみた。
■■ まずもって公正のために言っておけば、俺は件の書を立ち読みでナナメ読みしただけだ。だから、世の熟読者たちとは違う。 (しかしながら、論の展開や用いる事例で結構な情報はわかったと思ってるけどね。フォト・リーディング。) そうした実感や信頼しているrenqing氏の書評から来る先入見とは別に、読んでない俺がこの書のことを(正確には、書の周辺のことを)論じる方法もある。 読んだ人間の感想を読むことだ。実は俺はこの作業が好きだ。 ダメな本にはダメな読書がつくもので、というか、人は人の論理を「読む」とき、自分に都合がいい部分だけを<読む>ものであって、書評の文を読めば、それがどんなものか<わかる>わけだ。 ここは俺が伝えたいという意味において結構重要な部分なので、後にリフレインする。 ■■ 以前も紹介したがrenqing氏の読み<方>は深く精密である。恐らく時間を掛けて丹念に読んでいるのだろうと推測する。彼(もしかすると彼女かもしれないが)の書評は、しっかりと論理展開を押さえた引用をしており、引用部分においての批評は、未読者にも理解できるものだ。へんな印象論に終わることはまずない。紹介しておく。(難を言えば、この書評をカテゴリとして纏めてくれていないことだ。シリーズとして読み難い。書評カテゴリで探しながら読むってことは可能だが。) 氏が最初に言及した「論理と因果」 『国家の品格』書評(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(番外)(番外2)(番外3) 少し関連して、勝手に共闘宣言をしているハラナ・タカマサ氏の「「国家の品格」論より羞恥心」も紹介しておく。 ■ さて、他者の書評も眺めたわけだが、「論理よりも情緒」という部分に(ここはrenqing氏が書かれているようにかなり怪しい用語法なのだが)、なんだか「直感」的に「共感」してしまっている書評が多くてびっくりした。 しかも、「日本の伝統」とか「武士道」ってことまでもが好意的に言及されているものが多く、まるでそんなものがあったかように、あるいはあったのを知っているかのように語るのだが、そういう「信仰心」にも驚いた。そうだったことを今知ったって、あなたはあなたのままでしょ、って言いたくもなる。 時代の閉塞感に対し、「真の」エリートを求めたり、安定した「伝統」を求めたくなる気持ちもわからんでもないが、それは安易にすぎませんか? と言いたくなる。 彼らは「打出の小槌」や「ドラえもんのポケット」を信じている類いの人たちなのだろうと思う。 そして、もっとも不幸だなぁと思うのは、藤原氏が言外に想定するところの「エリートじゃない人たち」として自分たちが数えられていることに気付いていないのではないかと、ちょっと本気で心配になった。 なんとなく最近、大正文学(「白樺」「新思潮」など)の時代から昭和軍国主義(特に満州事変)への歴史経緯における思想史に興味があるんだけれど、もしかすると近いものがあるんじゃないかと疑っている。まあ、これはまた。 ■ とにかく、最近書いた「正気なのは売春婦ぐらいでした」「論理よりも感情?」「隠された十字架」は、ひとつの精神的態度のあり方を問題にしたものだ。 最後にそれに言及しておきたい。(冒頭部からの「リフレイン」だ) 「偶然を廃棄せよ!」というブログがある。 このブログの名称はマラルメの詩からとったという。 そして、その意味をこう解釈している。 私たちは目に留まった事象に関して、何らかの意味づけをおこなおうとする習性がある。多くの場合、それは自分自身の何らかの信念を補強する働きをもっている。 だけど、私たちは断固それを拒否しなければならない。 なぜならば、そのような態度は精神を偏狭なものにして、やがては感受性を萎えさせてしまうから。 門外漢にこの解釈の当否を判断することはできないが、これは何度か言及してきた<自己へのケア>としての自由、「不断の自己反省」の態度と親和性を持つ。 今の自分の「信念を補強する働きをも」つ「意味づけ」に対して、「私たちは断固それを拒否しなければならない」のは、「精神を偏狭なものにして、やがては感受性を萎えさせてしまう」からだという警句は心に刻むに値する。 蛇足だけど、精神の偏狭性は「差別」において最も見て取れるのではなかろうか。
[政治あるいは自由論] カテゴリの最新記事
|