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カテゴリ:戯言あるいは趣味論
宮崎駿は随分駄作も作るようになったと思うのだが、それでもずっと輝ける名作として残るであろう作品もある。
『となりのトトロ』だ。 この作品が公開されたとき、「トトロとは何か」といった問題が一部で議論されていたように思う。トロールが子供の言として訛ったものだとか、まことしやかに言われていたように記憶する。 さて、もちろん、いまや確実なる「答え」が出たと俺は見ており、さらに、その「答え」は、公開時から俺が主張してきたものだったのだが、折角なのでここにも書いてみようかと思う。 ■文明と自然 他の多くの作品を観ても、宮崎作品が「文明=自然」の二項対立を扱っていることは容易に看取できることだ。そして、多くが「自然」への憧憬に満ちている。逆に言えば、そこへ暴力的に対峙してくる「文明」とは何か、それとどのように対するべきかという問いも含まれている。 ■文明の象徴 一般的に「文明の象徴」とされるのは「鉄」である。これは製鉄技術を持ったヒッタイトの侵略が、各地に発展をもたらしたという歴史学的認識にもよるのであるが、私見ではもっと重要な点において、「鉄」が「文明」を「象徴」している。 ■「文明」の作用 「文明」を考えるとき、それは<分離>によってもっとも表象されるように思われる(後述するが、<分離>が象徴的に現れるのが「鉄」である)。 ルネサンスの三大発明の一つ「羅針盤」は、地理的位置関係をX軸とY軸という二項に<分離>することで、位置確認を可能にし、大航海時代を牽引した。 あるいは、一個の総合体の労働者というものを、労働力という抽象概念において捉える(<分離>する)ことによって、計算可能な数量に変換し、産業革命を誘導した。 「文明」は、「自然」から「有意な何か」を「抽象」する作業を通して、「発展」させられたものだといえるかもしれない。 ■有意なもの いま、「有意な何か」といった。 「有意な何か」を「抽象」することは、その裏で「捨象」するものがあることを含意する。そしてもちろん、そこで「捨象」され、見えなくなるものは「無意味な何か」である。 ■鉄 さて、「鉄」に戻ろう。 いうまでもなく、「鉄」は「自然に」存在しない。「鉄」は人工的な作用による。そう、<分離>による。 我々は、「鉄」が「鉄鉱石」から成分Feを<分離>することによって生じることを知っている。 そしてまた、「鉄」が我々にとって「有意な何か」であることも知っている。 では、鉄鉱石から成分Feを<分離>されたあとの「残りかす」の方はどうであろうか? 「鉄」は「有意」であるから「鉄」という名前があるのだが、「無意味」な「残りかす」の方の名前は、多くがしらないのではなかろうか。 ■トトロとは 何を隠そう、「鉄鉱石」から「鉄」を<分離>した後の「残りかす」の方を「たたら」というのである。 TATARA そう。 TOTORO 母音を軽く交換しただけ。 ■こども この発見には、重要な含意がある。 『となりのトトロ』において重要なことの一つは、トトロが大人には見えないということである。 「文明」を<内面化>された「大人」には、「有意」でない(つまり「無意味」な)トトロ=たたらは見えないのである。 あなたが、「たたら」という存在をしらなかった(あるいは、知っていても普段意識していない)ように。 しかし、こどもには、トトロ=たたらが見えるのである。 ■蛇足 ナウシカには「森=腐海」という「自然」があり、ラピュタとは「大地を離れた文明」であり、魔女の宅急便のキキは恋をしたその日に魔法が使えなくなる。もののけ姫はもっとも直截的にこれを語ってしまって、芸術作品としての質よりも商業主義に走ったものに見えたが、舞台は「自然と文明の接点」の「たたら場」である。挙げればきりがない。 作品を観ていて思うのだが、宮崎はロリコンかのように子供が好きなようだ。子供をどのように位置づけているかで、その論者の思想は垣間見れるかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.03.21 06:53:42
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