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日記はこれから書かれるところです。

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2006.10.24
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カテゴリ:その他
権力のいかなる減退も暴力への公然の誘いであることは、われわれは知っているし、知っているべきである――それがたとえ、政府であれ、被治者であれ、権力を持っていてその権力が自分の手から滑り落ちていくのを感じる者は、権力の代わりに暴力を用いたくなる誘惑に負けないのは困難であるのは昔からわかっているという理由だけからだとしても。(『暴力について』)


国家も人がつくったものであるから、悪いことを行う可能性があるのは当然だろう。大切なのは、国家(あるいはその機構の一部でも)が悪事を働き出したときに、それが悪事だと気づくことではなかろうか。
今回は『愛国の作法』の国家についての章から紹介する。こういう引用紹介の宿命上、大切な部分が省かれている場合はもちろん大いにありうる。それでも、だいたいの流れくらいは紹介したい。そもそも買ってる人はこんなもん読まんでもいいわけでね。


■国家とは何か

▽1国家と権力

  「国家」とは、ある一定の領域の内部で――この『領域』という点が特徴なのだ
  が――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」

 枝葉を削ぎ落としたような、いかにもウェーパーらしい定義です。国家をその活動の内容や目的ではなく、政治団体に固有の手段(物理的暴力の行使)から定義しようとすれば、おそらくこれほど要領を得た国家の定義は見当たらないと思います。(p.60)

 先のウェーバーの定義から導き出されることですが、統治機構としての国家は、対外的にも国内的にも、外的や国内の犯罪者といった、権力構造の挑戦者から守る最後の手段として仮借ない暴力行使をいとわない場合があります。そうすると、暴力は権力の必須の条件であり、権力はうわべの装いにすぎず、鉄拳を隠蔽するか、あるいは張り子の虎であることが後にわかるようなビロードの手袋であるようにみえます。
 しかし、暴力と権力はたいてい一緒に現れてくるにしても、本来、はっきりと異なった現象とみなすべきです。なぜなら、暴力はその本性からいって「道具的なもの」であり、あらゆる手段がそうであるように、追求する目的による導きと正当化を必要としているからです。これに対して、権力は、一見すると国家の追及する特定の目的のための手段のうように見えますが、権力構造そのものはあらゆる目的に先立って存在していますし、たとえ目的追及の後に変化することがあるにしても、権力構造は残っているはずです。この意味で権力は、より広い意味では国家を含めて、人々の集団が手段―目的のカテゴリーで考え活動する条件に他ならないのです。
 言い換えれば、権力は、「ただ単に行為するだけでなく、〔他者と〕一致して行為する人間の能力」に対応しており、「権力は決して個人の性質ではない」のです。それは、「集団に属するものであり、集団が集団として維持されているかぎりにおいてのみ存在しつづける」とみなされるべきです。(pp.63-64)

 このように権力を理解すれば、暴力が絶対的に支配するところでは、権力は不在にならざるをえません。つまり、「暴力は、権力が危うくなると現れてくる」のですが、「暴力をなすがままにしておくと最後には権力を消し去ってしまう」ことになるのです。(p.64)



冒頭に引用したアーレントの危惧のように、国家が、物理的暴力行使から「正当」性を忘れさるのは、権力が減退していくときだろう。アーレントによれば、権力は「政治=自由」に関わるものである。自由が減退した結果の悲劇をわれわれは思い起こさないといけない。アーレント的な「権力=自由」が減退するところに、暴力が頭を擡げてくるのかもしれない。


▽2国家と国民

 ところで、先の国家に関するウェーバーの定義にあるように、国家だけが暴力行使への権利の唯一の源泉になるということは、社会に分散している実力のすべてが悉く国家の一点に向けて集中していることを意味しています。
 このようなことが可能になるには、社会のどこかに国家の精髄である権力、つまり「最高の権力」があるという想定が成り立っていなければなりません。ここに国家の主権の観念が誕生しているわけです。(pp.66-67)

 このような主権概念は、歴史的にたどれば、ローマ法王に地上における最高の権威を認めようとした神権論にまで遡るのですが、領土的・民族的独立と最高の法的権力とを結合する主権という新しい観念をうち立てたのは一六世紀後半のフランスの著述家にして政論家兼法律家であったジャン・ボダンでした。ボダンによってはじめて国家の独特の属性としての主権が発見されたわけです。
 ただ、まだボダンの時代には国家と国民を結びつけて、国民の原理を近代国家における正当性の究極の根拠にするまでには至っていませんでした。それが実現されるのはフランス革命においてであり、その思想的な基礎づけはルソーによって成し遂げられました。(pp.67-68)

 フランス革命の意義は、教会やギルド、都市といった「中間団体を担い手とする多元主義を原理的に克服し、諸個人と集権的国家とがむかいあう二極構造の社会を基礎づけた」(樋口陽一『自由と国家』)ことにあることです。つまり、フランス革命ではじめて主権的な国民国家と「人一般=個人」を担い手とする「人権」との連関と緊張がはじめて成立することになったのです。
 この意味でルソー的な愛国心は確かに国民の矜持であるのですが、同時にそれは「自由への愛」であり、自己主張であるとともに、「法の尊重」でもありました。(p.69)

 ここで確認しておきたいのは、国民に関してふたつの道が存在していることです。この点をダントレーヴは、「<自然的>な諸要素」に基づく国民と「<精神的>な諸要素」に基づく国民に分けて説明していますが、自然の存在としての「エトノス」(民族)と人為の産物としての「デーモス」(市民)の違いとして分類することができるでしょう。
 前者は、血縁とか人種とか、あるいは美的感性とかを重大なものに祭り上げることにならざるをえません。その結果どうなるのかと言えば、国とは「悠久の歴史をもった日本という土地柄」ということになり、郷土と国家とは自然に連続し、後者が前者を内包する(『美しい国へ』)ということになってしまいます。しかし、このような国家観が、幻影のプリズムを通して現実を見ていることは明らかです。なぜなら、国民国家と近代的な経済システムとは、郷土的な共同体やその価値観、伝統の延長上にあるのではなく、それを解消することによってはじめて自立性を獲得することになるからです。(中略)
 他方、デーモスとしての国民という場合、それを最も端的に表しているのは、「国民とは日々の人民投票に他ならない」というE・ルナンの言葉です。いささか主意主義的に解釈されがちな言葉ですが、それは、人為の所産としてのデーモス、すなわち、「人権主体として解放された個人」の高度な自発性と主体性の契機を通じて絶えず作為的に形成されてゆく共同体としての国民を指し示しています。この意味で「愛国心」は、自由への愛を含んでいるわけです。したがって、「愛国心」を、与えられた環境への情緒的(感性的)な依存とみなすことは国民の原理そのものを蔑ろにすることですし、ましてや「愛国心」を強制することなど自家撞着と言わざるをえません。(pp.70-71)



次の章にも出てくるのだが、日本人ということを近代国家的枠組みとして捉えない人々が多いのは俺も何度も書いてきたことだ。だが、もちろん、近代国家的枠組みとして捉えないからといって、彼らが純粋感性的な日本像を持っているのかというと全くデタラメで、知らず知らずに<明治>を内面化しているだけだということも何度か指摘してきた。全く「没政治的=政治音痴」な奴らなのだ。恐いのは、実は<明治>を語っているのに、まるで「悠久の日本」を語っているかのように錯覚することだろう。自分も近代的な自由や権利を享受していながら、「自由や平等への愛」に否定的な態度を取れる人々がいるのにいつも驚く。立憲主義に否定的にいられる奴は、もっとも夢想家だということは、つぎにみるところでわかる。


▽3国家と憲法

 政治団体に共通した暴力あるいは実力という手段が、国家の属性を考える上で決定的な要素になるとはいえ、それはあくまでも限定された実力であることは言うまでもありません。つまり、国家の実力は、法によって法の名のもとに行使されるわけです。ここに法による支配という考えが浮上してきます。つまり、いわゆる立憲主義という思想と仕組みがそれです。(p.74)

 憲法が、こうした近代的な立憲主義の原理の上に成り立っていることは言うまでもありません。この立憲的な憲法という基本的な原理から見て、戦前の日本の「この国のかたち」の中軸であった「国体」の最大の問題点は、国家があらゆる価値の実体を独占し、諸個人は遍く天皇という存在に対峙させられ、いっさいの価値がその天皇との距離によってはかられる、そのような私的領域と公的領域の区別が消滅した国家だったということです。(p.76)



近代主権国家であれば、立憲主義を原理としていなければならないのは当然のことだ。もし、立憲主義を否定する論理を述べる人間がいるとすれば、それはひとつの世界構想でしかありえない(世界革命を伴うやつね)。
「この国には、あわないかも」なんて語れる性質のものではないわけだ。しかし、そういう理解をできないお頭の足りない人間たちが、勢いよく主張しているのをみると、片腹痛くてしょうがない。そいつこそ、国際政治のリアリズムを知らないと言わなければならない。


▽4国家と国家

省略。


というわけで、まあ、教科書的な理解をさせてくれる章だった。特に目新しいことは無いが、議論の共通の前提をつくりたいという、著者の思いは汲める。

国と言って、なにやらホンワカしたものを浮かべるとすれば、それは実はなんらかの権力的意図に足元を掬われている可能性がでかい。

近代人たるわれわれの国ってのは、「日々の人民投票」であって、良くも悪くも自分たちでつくっていくものなんだな。そういうことをちゃんと考えるかどうか。なんだかおっきなことではなくて、自分の生活のことをちゃんと考えられるかどうかが大切なんだろうね。





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Last updated  2006.10.24 23:09:00
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