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日記はこれから書かれるところです。

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2006.11.26
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カテゴリ:その他
この書には、今まで見てきた四つの章に加え、「むすびにかえて――「愛国」の彼方に」と「あとがき」が付されているが、そこには、姜氏自身のことが記されている。

ところで、氏には『在日』という自伝があり、以前一読してえらく感心したときのことを思い出す。本書を締めくくるこの二つにも、氏のそのままが顔を出していて興味深い。学者としての書ではなく、やはり、姜尚中その人が書いた書なのだと思った。

以前、氏と会って話したときに、同学のため、たまたま専門の話になった。そのとき「僕はタレントですから」と謙遜して語られた氏のことを思い出す。テレビに出、論文よりも「顔」として存在する氏へ、同門の学者から批判があることはあまり知られていないかもしれない。しかし、氏はそれを重く受け止めていることが俺にはよくわかった。「門下の鬼子」とよく氏は書いているが、それは、氏が学者としての生としてでなく、一個の生として語ることの意義の方を選らんだことの自覚なのだろうと思う。

世には、氏のような「パーリア」的状況を出自としている人たちがいる。このような少数者は、マジョリティには気づかれない。「普通」という言葉が、このような人たちにどれほど重く圧し掛かるかにも気づかれない。多数派には、何よりも、気づかないで済むという特権が与えられている。

人は自分が多数派であるうちは、そのことを自覚しようとしないのかもしれない。たまたま、自分がこどもを産めない身体であることを知ったり、たまたま、自分に親の片方もしくは両方がいなかったり、たまたま、自分の認識する性が身体のそれとずれていることを知ったり、たまたま、自分が恋愛対象にするのが異性でなかったり、たまたま、身体に障害を持ってうまれてきたり、たまたま、自分が日本に生まれながら日本人でないことを知ったり、たまたま、生まれてきた場所が差別される場所であったり。

もし、それらのことを隠さなければならないとしたら、この国は他者の気持ちを理解できない多数派による「こどもの国」ということになるだろう。しかし、状況はそれを公にできないような空気がまだまだ支配している。

そして、そのような「こども」たちが「愛国」を言うことに、本当に驚き呆れる。


▽むすびにかえて――「愛国」の彼方に

 「愛国」や「愛国心」という言葉が氾濫している割には、内面から突き上げてくるような理想がほとんど消え失せているのではないかということです。
 先ほど紹介した竹越与三郎の『人民読本』の最後の章は、「日本国民の理想」になっています。明らかに竹越にとって、「愛国心」を語ることは、国の理想を語ることに等しかったはずです。
 戦後も六〇年、現在の「愛国」のうねりの中で全く杳としてその姿が見えないのは、「日本の理想」です。(p.192)


どんな国にしたいのか、そういった理想がなければ真の「愛国」足りえないと、筆者は語る。本当にそう思う。愛するというのは、相手に対する責任を持つことであって、それはただの言葉ではないはずだ。そして、国を愛するがゆえに、為政者に対する監視も厳しくなるはずだ。


▽あとがき

 「愛国」が本来、「パトリア(郷土)」への愛に他ならないとすれば、凄まじい勢いで荒廃の一途を辿りつつある地域の再生こそ、まず「愛国」が取り組むべき課題に違いありません。
 かつて下筌ダム建設予定地に「蜂の巣城」を作り、国の治水事業に徹底抗戦した室原知幸氏の言葉がわたしの耳朶に今も残っています。「日本という国はなあ、大の虫を生かすために小の虫ば殺してきたとたい。ばってん、小の虫にも何分かの魂があるとばい。それば見せてやりたか」(pp.203-204)


このことは、オリンピック誘致合戦において氏が福岡市を応援した理由につながっている。

わたしが今度、二〇一六年夏季オリンピック誘致に向けて福岡市を応援したのは、東京という膨張するメトロポリスに対して、地方の中核都市が戦いを挑むことに共感を覚えたからです。国威発揚的な巨大都市の世界的なイベントには、やせ細っていく地域=郷土への共感など微塵もありません。小の虫の犠牲の上に成り立つ大の虫の饗宴、それが「第二次東京オリンピック」のイメージです。(p.204)

この辺のことで、石原とかいう汚い顔をした都知事が、姜氏に対して、顔ほどではないにしても汚い言葉をはなったことはニュースでも取り上げられた。当時それへの姜氏自身の反応は聞かなかったが、この書の最後にさらっと書いている。(恐らく、本書自体において取り上げるには、レベルが低すぎたからだろう。)

都知事のわたしに対する誹謗中傷をあらためてここであげつらうつもりはありません。ただ、「愛国」気取りの彼の言動こそ、実はかつて室原知幸氏が終生を賭けて抗い続けた「大の虫」の傲慢さではないかとおもうのです。「金持ちの、金持ちによる、金持ちのためのオリンピック」、それを国家プロジェクトだと言ってはばからない「愛国」とは一体何でしょうか。いささか牽強付会かもしれませんが、「怪しげな外国人」という「パーリア」的状況にあるわたしこそ、実は彼よりもはるかに「パトリオット」ではないかと内心自負しています。(p.205)


本書への書評は、いずれ書くかもしれない。





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Last updated  2006.11.27 05:02:48
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