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日記はこれから書かれるところです。

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2007.11.03
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先月の終わり頃からなぜか急に小説が読みたくなって、いくつか読んでいる。

糸糸山秋子『海の仙人』を読んだ。(糸二つ重ねて一文字。「いと」と読む。)

どのように評していいかわからないが、重要な作家である可能性があるとだけ言える。

文庫版で福田和也なんかが賞賛の解説などを書くものだから、作品の方も急に薄っぺらく感じられるようなところがあるのだが、福田の指摘するような箇所は丁寧に読み返せば、福田の指摘なんか全くあてにならないことがはっきりし、作者の重要性は少し回復する。

とはいえ、じゃあ、はっきりと重要な作家かというと、これは心許ない。

つまりは、もうしばらく様子を見る必要がある、という意味において、重要な作家である可能性があるわけだ(いや、俺の場合、もうちょっと著作を読んでみろということになるのだが)。

俺が重要な作家である可能性を見出すとすれば、福田和也が重要な作家の要素を見取る部分に、(福田とは全く逆に)俺が作者の不安を認めるからに他ならない。福田が言う「倫理」なんかが重要な作家性を決めるのだとしたら、この国の作家はものすごくつまらない集団でしかないだろう。しかし、この作家は、福田の決め付ける「倫理」に対して、かなりアンビバレントな態度を取っているように俺には思われた。そして、その態度こそ重要な作家性(まあ、そんなものがあるとすればだが)を担保するように思えてならないわけだ。

文学が国民をつくる、なんてのは結構な話だが、福田とか、その仲の良い石原なんかが、それを代表して進めようとしているのを見ると、おまえらのレベルでなんてやめてくれよ、と言いたくもなるわけだ。

まあいい。


■ファンタジー

この小説にはファンタジーなるキャラクターが登場する。これが何かよくわからない。

まあ、いくらか示唆しているところはあって、たとえば、「小説」の象徴であったりするのは間違いない。が、それですべてかと言えば、これがわからない。

そして、これもよくわからないのだが、作者自身もそれをはっきりと「わかっ」ていないのではないかと思える。

ここが、この小説のポイントなのではないか。

いくらかの人間にとっては、なんとなく存在を知っていて、出会った時にすぐにファンタジーそれとわかる存在。希少種の絶滅の折りに、それを見取る存在。今手元に本が無いので、他の例を思いつかないが、まあそういった存在。本人は神様の一種だみたいなことを言う。役に立たないからよいみたいなことも言う。


■役に立たない

さて、しかし、この小説の他の登場人物たちにとっては、このファンタジー、なかなか重要な存在になっていく。近くにいてほしい存在になっていく。

偶然を導く存在にも感じられるが、必ずしもそういう「導きの糸」というわけではない。たまに何かを語るが、物語上、影響を与えるようなことを言わない。

それでも、当たり前のように、近くにいてほしい存在、のような雰囲気を小説全体が醸しだそうと努力している。

つまりは、いてもいなくてもいい、だからこそ、存在それ自体が理由を必要としない。

言いたいことをもっとはっきり言えば、「役に立たない」。だからこそ、「役に立つ―立たない」という二項対立を超越した立ち位置に存在することができる存在。

存在に理由を必要としないというのは、近代において、本当に本当に貴重なことではなかったか。


■偶然という癒しあるいは救いへの希望

この作家は、おそらく癒しを求めている。この理由を必要とする現実に傷つけられる小さき者たちを代表して、現実の偶然性に癒しを求めている。偶然の織り成す世界が癒しをも保持しているという救いへの信仰を持っている。

いや、そういうと、作者の意図を少しばかり外す可能性がある。

もう少し精確な読みを試みれば、作者は、そうした偶然性に癒しを求めるこの存在(われわれ!)の信仰にこそ、救いへの希望を読み取っていると言えるだろう。

いろいろな現実をそのままのものとして受け入れることが可能になった主人公に、ファンタジーは、自分がもう必要無いというようなことを仄めかす。

そこに至るまで、現実の暴力に苛まれ、自身をも醜く思うようなこの小さき存在が、自分の存在をそのまま受け入れるため(これは決して「肯定」ではない!)、ファンタジーが存在している。


■愛の拒否

この作品が「救い」において「愛」を拒否していることも指摘しておかなければならない(残念ながら、述べたいことは全く違うとは言え、福田もこの部分を指摘している)。

「愛」というか、肉体的結合をして、ハッピーエンドとするような風潮があった。しかし、主人公は、周到にも、このハッピーエンドに至れないという「仕掛け」がなされた存在である。「愛」に回収(改宗?)されない状態をつくってあるわけだ。

つまり、この小説は、救いの物語が無くなってしまった時代の、救いのための小説だと言える。

愛は、すべてのものに価値を見出すところに意味がある。

しかしこの小説は、そうした枠組み自体を拒否する。「価値を見出せない=役に立たない」にこそ、救いを見出すのである。


■わからないという<価値>

さて、勝手なことを書いてきたが、この作家の重要性は、やはりわからない。

しかし、この作家は「わからない」を大切にしているように感じる。その点をして、重要かどうかが「わからない」存在に立ち得ている。

価値があるかどうかを福田なんかは考える。

だが、俺は、この作家の素晴らしさというか可能性というかは、「役に立たない=価値が無い」ということを前提とした「小説的なもの」において、「Dennoch(それでもなお)!」といわんとする活動のうちに見出す。

文学は国民なんか作らない。ただの役に立たないものだ。だからこそ、素晴らしい存在でありえる可能性を持っているのだろう。





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Last updated  2007.11.03 22:19:05
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