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2007.11.30
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(1)のつづき


■しんらつな反対論

さて、選評の抜粋を足がかりにするという、「とんでも」なやり方であることは重々承知しつつ、さらに続ける。

選評の抜粋上わかる限り、唯一でありながら、絶対的な反対者が石原だ。

しかし、石原の反対は、宮本が述べるような質のものではない、というのが俺の意見だ。

いろいろな反対意見を述べようとも、石原の評価は、単純に好悪に由来している(もちろん、好悪がレベルの低い判断基準だと述べるつもりなど毛頭ない)。

そして、その好悪に文学的ではない何かのスタンスがおのずと出ていると俺は考えている。

石原は、ある箇所で、文学の絶対要件のひとつとして「カタルシス」を挙げている。ここにひとつの、文学的ではない、彼の何かのスタンスがあるのだが、それは後述する。

ここでは、再度、石原の選評の「抜粋」を見よう。

以前の、絶滅に瀕している鳥「トキ」について書いた作品にも一種のマーケッティングとしての作者にとって余り必然性のない題材の選択が感じられたが、今回の作品も世間を騒がした忌まわしい事件との時間的相関性を外しても、物書きとしての内面的なニーズが一向に感じられない。

さて、「トキ」について書いた作品というのは、言うまでもなく『ニッポニア・ニッポン』のことだ。

石原は、「一種のマーケッティングとしての作者にとって余り必然性のない題材の選択が感じられ」るというのだが、これはおそらく誤りだ。

『ニッポニア・ニッポン』に関しても論じる用意が無くはないのだが、この書に関しては、文庫版「解説(と名打っていないが)」で斎藤環が卓越した読解をしているので、ひとまずそちらに譲りたい。この斎藤の「読み」に関しては、全体を引く必要があるものだと思うが、ここでは無理なので、少しだけ引くことにする。


■斎藤環の読み(象徴を妄想化する形式主義のほうへ)

いまや阿部が信ずるのは形式であり、論理だけである。ある形式を論理的に徹底するところから、導き出されるいびつな「妄想」。複数の妄想が関係を結びあい、妄想の複雑系が繁茂しはじめる。このとき阿部はあきらかに、妄想のひとつの本質を独自に看破している。そう、ほんらい妄想とは、論理的徹底性の産物なのだ。臨床的にもパラノイアが治りにくいのは、彼がわれわれ以上に、厳密に論理的な考え方をするためだ。

さらに、もう一箇所。

…〔前略〕…そう、本作こそは、「天皇萌え」の可能性を示唆した最初の作品でもあったのだ。…〔中略〕…
ここでトキ=天皇という「究極の象徴」同士の交配は、むしろ象徴なるもののいかがわしさを露呈させるためのテクニック以外の何物でもない。かつては禁忌の圧力のもと、壮大なる文学的幻想の源泉たりえた「天皇=父」殺しの身振りは、もはや「ひきこもり」青年の妄想という矮小化をこうむって、象徴そのものの衰弱へと向かう。本作が、クイーンの名曲『ボヘミアン・ラプソディ』の歌詞とともに閉じられていることを思い起こそう。夢とも現実ともつかない虚構空間で、殺人をおかした死刑囚が母親に呼びかける決別の歌。まさに、このうえなく通俗でベタな終わり。象徴殺しに失敗した少年は、みずからはぐくみ育てた妄想からも解放され、あっけなく「象徴そのものの不在」に気付くことになるだろう。そう、象徴は殺すこともできないし、殺すにも値しない。なぜなら象徴は、端的に「存在しない」のだから。



斎藤の「読み」は、(ラカン研究者らしく)最後に興味深い結論を示唆して終わるのだが、今回は、とりあえず、石原のあてずっぽうな批判に応答するための箇所を引いた。

石原は、もしかすると、阿部が「トキ=天皇」という記号を用いたことを「マーケティング」と呼んだのかもしれないが、おそらく、この作品を毛嫌いする本当のところは、そうした表層上の問題以上に、阿部が「象徴」を「存在しない」ものだと「暴いた」事実にあるように思われる。

というのも、石原が文学の絶対要件とする「カタルシス」は、象徴的世界での象徴的な問題解決手段でしかないからだ。

阿部のやったことは、石原が無意識に感じ取っている通り、「(石原が考える)文学」そのものの「廃棄」という行為に等しい。

そして、それを批評しようとするならば、「文学」を超えた視線を必要とする(つまり、内部の問題ではなく、それ自身の存在意義を問われる問題である場合、われわれは参照項を外部に必要とするだろう)。すなわち、いや、とりあえず、これを「政治」と呼ぶことにしておこう。

石原は、文学者(「文学」に内在する者)としてではなく、選考者の中でひとり「政治家」として振舞っている。

彼は、文学者としてのスタンスが存在できない問題に関して、政治的な好悪(preference)を
文学的世界へと忍ばせているわけだ。

<(石原が考えるのとは違った)文学>というものが、もしその枠を常に変化させ続けるものであるとすれば、石原の「政治」から規定される「文学」は、常に<文学>作品によってその存在意義を問われ、ゆえに、石原はその都度、「好悪」によってそれを判定せざるを得なくなるだろうことは必然的結果なのだ。

とにかく、阿部の題材選びは、石原的な「必然性」は持っていなくとも、周到に計算され<文学>的論理性を持った<必然性>を湛えていることが、斎藤の記述から読み取れよう。

村上が以上のことを捉えて、「小説にしかできないことに作者が挑戦している」と言ったとしたならば、おそらくそれは正しい。


■なぜ、ロリコンか

本当は、しっかり調べてから書こうと思っていたことだが、『グランド・フィナーレ』において、主人公が「ロリコン」であることにも、私見では、必然性がある。

ここでは仮説的にのみ、記しておく。

ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』のロリータ(ドロレス・ヘイズ)は12歳である。

12歳という年齢は、『グランド・フィナーレ』の主人公が主に性愛対象とする子どもたちの年齢にぴったりと対応している。

そして、この年齢は世阿弥『花伝書』にあらわれる「時分の花」としての年齢と同じだ。

言うまでもなく、「時分の花」は年齢とともにあらわれる「花」であり、それは「真の花」ではないわけだ。

『花伝書』はいろんな読み方のできる書物だが、ある部分において教育書であることはもちろん間違いない。

つまり、「真の花」になるための書ということもできる。

そう、「目的」があるわけだ。

さて、この花伝書的世界において、この「目的」がなくなったならば、どうなるだろうか。そう、つまり、「グランド・フィナーレな世界」となったならば、どうなるだろうか。

そう、もはや、「花」と呼べるものは、「時分の花」しか存在しないのである。

それゆえ、その世界を生きる主人公沢見は、ロリコンでしかあり得ないという結論に至らないだろうか。

もはや、正しいロリコンかどうか、正しいペドフィリアかどうか、などということは問題にならないのである。

これは阿部の論理的必然性の然らしめるものであるように思えてならない。






Last updated  2007.12.01 02:07:27
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