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日記はこれから書かれるところです。

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2009.06.05
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review1のつづき


■どこから来たのかわからないわれわれ

村上の作品でずっと言われてきたことがある。それは、主人公に家族が「いない」ということである。今回、この問いにも村上は答えたように思う(さらに言えば、この兆候は短編集『神の子どもたちはみな踊る』から窺い知れた;ところで上のエルサレム賞受賞講演において、村上が自らの父親について語ったことは衝撃的であった)。

しかし、その問題について語る前に指摘しておかなければならないことがある。それは、村上にとって「家族」の問題は軽いが故に語られてこなかったわけではなく、この作品の言い方にあえて絡めて言うならば、「あまりにも中心にありすぎて」語られてこなかったのだろうと思える。それほど、小さからぬ問題だったと思える(あるいは、この問いもまた、村上への重荷として圧し掛かっていたのかもしれない)。

主人公の二人(この二者は質的に重大な違いがある)は、双方とも「家族」について重大な問題を提起しているのだが、まずは、本当の主人公というべき天吾について書き始めよう。

天吾は父子家庭に育ち、父親を実の父親ではないと疑っている。最終的に本人はそのことを確信するのであるが、実のところははっきりとはわからない。あるいは、それが本当だとしても、ここにおける主題「自分はどこから来たのか」に対する回答は冷徹なまでに与えられないこととなる。

つまりは、「自分とは何者か」という問いを「自分はどこから来たのか」という問いに回収することができないようにつくられているのである。

ある種の人々は、「自分とは何者か」という問いに対して「出自」を持ち出してわかった気になっている。だが、村上が注意深く指摘しているように(私には読めるのだが)、それはひとつの「物語」でしかない。自分が日本人であるといったところで、誰々の子であるといったところで、それは私の何を表しているのだろうか?

自分が不安になったときにこそ、われわれは違う選択肢を探らねばならないのではなかろうか。家族は多くの場合、「肯定軸」にもなるが、「桎梏」にもなることを忘れてはならないだろう。

天吾が家族不在であることは、この物語における重要なプロットである。


■この時代の救い

かたや、ヒロインである青豆は、「証人会」という宗教(モデルは明らかだろう)を信仰する両親に育てられ、「桎梏」としての「家族」が色濃く影響している存在だ。

彼女はその信仰を10歳のときに捨てるのであるが、そこまでの習慣のようなものはもちろん深く刻まれている。

そう、それは<運命>のように。誰が自分の性格を選べただろうか。誰が自分の出自を選べただろうか。それが満足のいくものであればまだよいだろう。だが、それが自分を傷つけるものであればどうだろうか。

偶然が<運命>をつくってしまっている。そこに既存の「物語」はどれほど役に立つのだろう(そして、その「物語」が他者を傷つけないという保障はどこにあるのだろうか)。

そのような根源的問題を持ちながら、彼女は愛に生きることにする。もっと性格にいうなら、「愛という物語」に賭ける。

それもやはり偶然に彼女にもたらされたものだ。だが、彼女がそれを選んだ。

大切なのはそこだ。


■愛と暴力

物語は人を傷つける。また桎梏である。だが、それを害悪だということはできない。大切なことは、その物語が、いかなる「手続き」を経たものかということだろう。

人は物語に苦しめられるが、物語がなくては生きていけない。しかし、物語は人を傷つける。その矛盾を解消するものは何か。アウフヘーベンするものは何か。それは、やはり愛と呼ばれるものかもしれない。

もちろん、愛の物語もまた、人を傷つける。控え目に見積もっても愛は暴力的だ。それから逃れるために別の空気さなぎをつくることもできる。しかし、大切なことは、傷つき傷つけられるわれわれが、そのことをしっかりと弁えたうえで、勇気をもって他者へ架橋することではなかろうか。それを愛と呼んでもよいだろうか。

暴力はなくならない。それは愛と表裏一体だからだ。

だが、救いがないわけではない。われわれはある種の愛を否定できる。これが大切だ。否定の選択肢がないところには、肯定の選択肢もないのだ。


■どのように物語るかこそが現実だ

この作品のもっとも大きな主題は、現実をどのように見るのか=どのように物語るのか、ということをわれわれは選べるという主張なのだろうと思う。

どんなに否定したくても、人間に普遍的価値や普遍的事実などない。

どのように物語を紡ぐか、という選択肢が残されているだけだ。青豆は、「愛の物語」を選んだ。

そして、それに呼応するように天吾も物語を紡ぐ決断をした。

『空気さなぎ』と同じように、この作品もまた、象徴的に終わっている。

最後に、一か所だけ引用することを赦してもらおう。

「物語は彼女がその通路の扉を開けようとするところで象徴的に終わっている。その扉の奥で何が起こるのか、そこまでは書かれていない。たぶんそれはまだ起こっていないことなのだろう」

この作品は、読んでいる者によって引き継がれなければならないのだ。


■小説の書き方

私の読了後メモは以上で終わりだが、この作品は、村上が小説の書き方を教えてくれているようにも読める。

小説の書き方の本にも多く目を通したことがあるが、ずっとプラクティカルなアドヴァイスになっているように思う。

それは読んでみてのお楽しみだが、ひとつだけ指摘しておけば、村上は事実の提示する順番がうまいのだ。裁判において、自分が有利になるような証拠の出し方をする検察のように。

書かれていないことは、存在していないことだと知っている。村上春樹の作品を読んでいると、アラン・パーカーの『エンゼル・ハート』を思い出す。っていって、気持ちをわかってくれる人はどれくらいいるんだろうか。

(了)



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Last updated  2009.06.24 15:28:04
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