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日記はこれから書かれるところです。

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2009.07.03
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一時期、「戦後の民主主義教育」を批判したい人たちが(結構な人がそのなかで育っているのにもかかわらず/からこそ)、「手をつないで一緒にゴールをきらせる運動会」をその象徴として槍玉にあげていた。

私はそうした運動会の実践を見たことがないのだが、それを戦後民主主義教育の象徴と捉えるのは、勝手に誤解して、批判するという、よくある「保守」的態度に他なるまいと思う。


■「保守」について思い出した

もうだいぶ書いていないことなので忘れかけていたが、私が「保守」と呼ぶ場合、基本的には次の要素を含んだ態度のことをいうのだった。

1.直感的に判断する。
2.自分の直感に対する反省的吟味がない。
3.違和感を最大の敵とする。
4.どうして違和感を感じるかまでは考えない。
5.ラベルを貼ってわかった気になる。

たとえば、「運動会の徒競走で順位をつけない」ことに違和感を感じ、そんなことをしている(らしい)「教育」に対して、直感的に「おかしい」と感じ、その理由がよくわからないから、「戦後民主主義」というラベルを貼ることで、精神的安定を手に入れようとする。

もちろん、精神的安定を手に入れる必要があるのは、自分の知らないことが起こっていることに対する田舎者的危機感がそれを命じるからに他ならない。

だから論理演繹的に、

6.田舎者である。

も付け足そう。

ちなみに、蛇足も蛇足だが、この「保守」は、別に政治的志向を表した表現ではない。誤解させるようで申し訳ない用語法なのだが、この「保守」層は、なぜか保守的政党を支持しやすく、自分たちを保守と名乗る。それじゃ、あまりにちゃんとした保守がかわいそうだからということで、私が「保守」と表記しているわけで、べつにこれら二者はぴったりとは重ならない。いわゆる左翼政党支持者にもこの「保守」はたくさんいる。

政治的に左翼だ右翼だ言うことの不毛さは実はここにあって、自分がどういう意味で左翼か右翼かわかっていない人間が、適当なことを名乗るものだから、困ってしまうというわけだ。

いずれにしても、「保守」は権威に弱い。権威に対して適当な距離を取れないために、もう少し言えば、権威との付き合い方を教育されていないために、そうしたことが可能な家庭で育っていないために、権威に対してアンビバレントな感情を抱く。何らかの権威を愛し、その対照となっている権威を憎む。

それがひっくり返ることは多々あって、転向なんていう面白いことばが存在する空間を形成してくれている。すべては、教育が足りていないことによる。権威とうまく付き合えないことによる。


■違和感の原因は

いずれにしても、どうして「手をつないで一緒にゴールをきらせる」ことが悪いことなのだろうか?

一応断っておけば、私もこれに違和感を感じている。だからこそ、しっかりと考えないといけない。実態のよくわからない「戦後民主主義教育」のせいにしてもしょうがない。

おそらく、そもそもの話、この国は運動会は軍隊を作る道具だったのではないかと思う。狙いが、子どもたちを競わせてなるべく卓越した成果を求めさせることにあるのだから、そうした前提を否定するような修正については、違和感を覚えるのだろう。前提と違っているじゃんか、と。

そして、そうした修正をしたい側は、子どもたちが国家の道具になることを危惧しているのかもしれない。

もしそうであるならば、戦前、軍隊になるべく競争をさせられていた者たちが、戦後、企業の戦士となって戦わせられていたことを思えば、むしろ遅いぐらいの修正にも思える。そして、同時に、そうした本当の意味での戦後的価値観(企業戦士優位の世の中)が崩れてきたからこそ、そうした変化についていけなくなった人々が時代的雰囲気に違和感を覚え、その(こちらはまさしく)象徴的事柄である「非競争運動会」に憎悪を感じるのだろう。昔は良かったなあ、と。私も含めて。


■修正ズレ

そうであれば、理由がないわけじゃなさそうな修正なのだが、やはり、この修正には問題があるように私には思える。

「手をつないで一緒にゴールをきらせる運動会」に対して、運動が得意な子どもたちから、自己表現の場を奪うな、といった批判があるらしい。繰り返すが、私はそんな運動会見たことないから、そんな批判が実際にあるのかも本当は知らない。いかにもありそうなところが怪しくさえある批判だ。

ともかく、そうした批判に対して、運動会を実践する側はどのように答えるのだろうか。足の遅い友だちのことを思いやろうよ、とでも言うのだろうか。ぼく負けてもいいから思いっきり走りたい、と足の遅い子が言ったらどうするのだろうか。

そんな優劣ばかりを競う社会にしないためにやっているんだ、と言うのだろうか。

しかし、軍隊や企業で戦うのが当然という価値観を子どもたちに与えるのと、競わないほうが良いという価値観を子どもたちに与えるのは、同じくらい間違っているんじゃないかと思う。

戦前=戦後の社会に、軍隊か企業戦士しかいなかった(どちらも男性中心主義社会)のに対して、彼らが、理想とする社会は、労働者しかいないのだろうか?

ブルジョア的社会に対する反発から、競争を象徴的に嫌悪し、非競争を愛する、という態度は、どこまでいっても「保守」でしかない。そこに修正のズレがあるように思えてならない。


■しっかり修正

はっきり言って、運動会のそもそもの機能を批判するのだとしたら、どうして運動会自体を止めないのかと私は思ってしまう。

もちろん、そうしたことが、先ほどの逆批判(ぼくたちの自己表現の場を奪うな)から逃れられていないことはわかっている。

だから、私は、運動会なるものを、もっと個人的な競技にすれば良いのにと思う。出たいやつが出ればいい。好きなようにやればいい。

勝ちにこだわるやつがいてもいいし、こだわらないやつがいてもいい。

敗者がいるから勝者がいる社会はやはりどこかおかしい。無理やり敗者を土俵に上げて相撲をとろうとするジャイアニズムよりも、そこで卓越を競いたい者たちが競うのを皆でみるショーパーソンシップの方がずっと強い日本を作ってくれると思うが。

そういえば、私が小学生のとき、何日もかけて運動会の予行練習をさせられたものだ。誰のための運動会なのだろうか。それを主導するのは「サヨク」な人だったのもおもしろい。

運動会の予行練習に力を入れるっていうのは、どうしてもヒトラーがベルリンオリンピックの予行に力を入れたこととダブっちゃうんだよね。





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Last updated  2009.07.03 16:54:13
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