日記はこれから書かれるところです。

2010/04/26(月)02:23

■村上春樹の文体論――『1Q84』読解のために■(2)

戯言あるいは趣味論(15)

(1)のつづき レイモンド・チャンドラーの文章スタイルはヘミングウェイのそれとも違うし、ハメットのそれとも違っている。ヘミングウェイが「前提的にあるもの」とし、ハメットが「とくになくともかまわないもの」とし自我の存在場所に、チャンドラーは「仮説」という新たな概念を持ち込んだのだ。それがまさに小説家としてのチャンドラーの創造的な部分であり、オリジナルな部分である。 村上は、こうした文学手法をチャンドラー一人の功績にするつもりはない。その水源として、ヘミングウェイやハメットを挙げている。 そして、重要なのは、それらの作家が、「近代文学」の核心に位置し、最後には桎梏となって現れる「自我」に対して意識的な距離をとっていたという事実である。 チャンドラーはなぜそのような手法をとったのか? 目的はただひとつ、彼自身の語るべきフィクションを、より自発的で、よりカラフルで、より説得力のある物語として立ち上がらせるためである。この現実の世界においては、それがたとえどのような世界であれ、フィリップ・マーロウというような人物は実在し得ない。…〔略〕…もしマーロウをよりリアルな自我を持つよりリアルな人物――たとえばヘミングウェイの小説におけるニックのような存在――として、小説の中に持ち込まなくてはならなかったとしたら、チャンドラーの小説は今あるような自在な存在感を、おそらく獲得していなかったはずだ。 「この現実の世界においては、それがどのような世界であれ」というくだりは、村上の良い読者であれば、どこかで聞いてはいないだろうか? とにかく、その手法は、小説をより「リアル」にするためのものである。我々は文学に、それ以上の何を望むというのだ? そのような彼のやり方はいわゆる「本格小説=純文学」の世界に何かしらの影響を与えただろうか? 間違いなく与えたはずだ。個人的なことを言わせていただけるなら、少なくとも僕はずいぶん影響を受けた。彼に差し出された皿を前にして、「そうか、なるほど、こういう風な書き方もありなんだ」と思わず膝を打たされた。…〔略〕…その新しさを言葉で的確に表現することはとてもむずかしいのだが、その陸影のほのかな接近を身のうちに自然に感じるのはそれほどむずかしいことではない。なぜなら書き手の無意識的な雄弁性をもっとも鋭く理解するのは、いうまでもなく、読み手の無意識的な理解力であるからだ。 そして、私見では、この『ロング・グッバイ』の翻訳によって、村上は、それをさらに意識化=深化させたのだ。 チャンドラーは僕にとって最初から大事な意味を持つ作家であったし、その重みは今でも変わらない。小説というものを書き始めるにあたって、僕はチャンドラーの作品から多くのものごとを学んだ。技法的な部分でも具体的に学ぶべきことは多々あった(なにしろ彼は名にしおう名文家だから、学ぶべきことは実に数多くある)。しかし僕が彼から学んだ本当に大事なことは、むしろ目に見えない部分である。緻密な仮説ディテイルの注意深い集積を通して、世界の実相にまっすぐに切り込んでいくという、そのストイックなまでの前衛性である。その切り込みのひとつひとつの素早い挙動と、道筋の無意識的な確かさである。 重ねて言うが、この「あとがき」は、非常に重要な文学論であるので、ぜひ全文読んでほしいものだが、このいくらかの引用からだけでも、『1Q84』の構造を読み解くヒントにならないだろうか。そして、さらに、他の作家に比べて、なぜ村上春樹はおもしろいのか(ここでおもしろさは、売上部数において測っていることにする)、という問いへの回答のヒントにならないだろうか。 ともかく、やっと『1Q84』へ書評を書くための準備が整ったわけである。 ちなみに、「技法的な部分でも具体的に学ぶべきことは多々あった」というところを村上は(当然ながら)深く語りたがらないが、今回の『1Q84』において利用されていることを一つだけ指摘しておけば、キャラクターによる「要約的振り返り」とでも言えるような手法である。 フィリップ・マーロウは、しばしば、事件のことを振り返り、要約するのであるが、それは新たな事実=場面を立ち上がらせ、次の展開に生きるように工夫されている。『1Q84』では、ご存じのように、複数の選ばれたキャラクターたちが、その作業を行っている。そこには、要約とともに推理が付きものであり、読者の疑問を整理し(あるいは誘導し)、そして新たな要素が(比較的自然に)加わっていく。それが強力に物語の展開を支えているといってよいだろう。 最後に、全く異なる分野――政治学――の書物から引用したいと思う。 ホッブズが『リヴァイアサン』で「神」を「正義」におきかえたとき、かれは「正義」が政治学にとって神学における「神」に相当すると主張したのではないのか。ホッブズによって用いられている存在論的証明は、『リヴァイアサン』の読者を説得するためのレトリックである以前に、まずは正義の実在に対するホッブズ自身の信仰告白であり、さらにいえば、政治学者としてのかれの自己規定の行為であったと考えられなければならない。政治学者であるかぎり、たんなる秩序でなく正義にかなった秩序が、それも「たんに観念として」だけ存在するのではなくまさしく「現実存在」することを、みずからの発話行為によって例示しなければならないのである。 中金聡『政治の生理学』(勁草書房、2000年)からの引用。 もちろん村上をホッブズに匹敵すると言うつもりはないが、いくつかの単語を置き換えれば、文学における村上の実践もまた、この引用文のような性格を持っていると言えないだろうか。 これを村上批判者たちへの、小生なりの今のところの回答としたいと思う。

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