■最小限の政治感覚■
頭の悪いという意味での「保守」って奴らはどんな思考の仕方をするのかと、いつも俺なりに観察しているのだが、はっきりと気づいていることが1つある。彼らは、次のような言い方をよくするのである。「この一点で、俺はこいつを信用しない」全体の論旨でなく自分が「わかる」ところの1点。つまり、論の積み重ねの適正さ等はその「言説」の当否の判断基準にならず、自分がわかる(思い込んでいる)問題で意見が一致するかどうかが、その「人」を信用するかどうかの判断基準なのである。最初に相手を信用するかどうかは、頭の悪い自分の主観(直感)に委ねられているわけだ。そして面白いことに、彼らは一度「信じる」と、その人が言うことには絶対的に賛成しだす。言っている「こと」が大切なのではなく、言っている「人」が大切なのだ。逆に言えば、いったん心服した人間の言うことは「間違いなく正しい」のである。もちろん、こういうのを権威主義という。頭の悪い「保守」が新興宗教と結びつきやすいのは、彼らには絶対に信頼できる言の葉を吐く「教祖」が必要だからに他ならない。自分の頭で考えようとしない「こども」なのである。(これも最近気づいたのだが、彼らはこの「こども」をもしかすると肯定的に捉えている。大抵の新興宗教は「人は神の子」なんて言ったりして、積極的に「無思考」を誘導している。)「自分は思考しない」のに(なぜか)「自分は正しい」。「無思考」だから「自分は変わらない」。「自分を変えたくない」という「うんこなプライド」を持つ。これらが「保守」の特徴なのである。■「保守」とオイディプスそして、そこには大抵の場合、「オイディプス・コンプレックス」がある。父親を信じたいのに父親が信頼に足らない存在であった家庭で育った人間こそ「保守」になりやすい。現実の「父」がひどく不完成だったために、理想の<父>という間違わない人間を追い求めてしまうのである。しかし、そんな理想的な<父>が現実に存在するわけがない。ここで、「父には、いい部分もあれば、悪い部分もある」といった「おとな」として当然な判断が出来る人間は「保守」にはならない。「保守」は、そういう現実を認められないコンプレックスが反転して、理想の<父>を「宗教(的なるもの)」に見出すのである。そして、そこでは実際の「父」も(興味深いことに「死んだ」後がほとんどだが)「実は理想の父だった」という偽装が為されるのである。言うまでも無く、彼らからは「父殺し」の契機が奪われている。存在しない理想を<父>に見出す心性は、存在しない理想を<国家>に投影しようとする精神の働きに対応している。これが「保守」なのである。ところで、今し方、「おとな」として当然な判断が出来る人間は「保守」にはならないと述べた。問題は、これの解決法である。言うまでもないことだが、「理想的な家庭」を復権させようとする安倍や石原といった「政治屋」がやろうとしているのが、この抑圧を強める逆効果の方法であることは多言を要しない。(しかし、さらに興味深いのは、彼らもまた「オイディプス・コンプレックス」を持っていることだろう。石原慎太郎の例は有名だが、安倍の場合は祖父がその対象である。「美しい国へ」で書いているように、A級戦犯として批判され続けた祖父に、彼はアンビバレントな感情を持っていたに違いない。)■引用余談のつもりが、長くなった。当初の予定していた文章を引用する。要するに、「愛国心」とは根本的に無茶な事柄なのである。「愛国心」あるいは「我が国と郷土を愛する」という言葉で、実は何一つとして内容のあることが言われているわけではない。ただ改正推進派が漠然とイメージしている自分の主観を、「愛国心」という言葉を利用して、被治者に押し付けようとしているだけである。これは「愛国心」の私物化であり略取である。しかもそれを国の公共の基本法として、国の名において制定しようとしている。国を愛せとする法律を国が自分で制定するということ自体、少し冷静に考えてみれば気持ちの悪い茶番である。しかもそれが特定の権力者たちの利害や私念によって推進されているのである。そんな「自己中」な国でよいのか、他のあり方は模索できないのか、と問いただす最小限の政治感覚やモラルが必要である。(藤本一勇「「国」を考える自由」『世界』760号百四頁)はっきり言って、今回の教育基本法「改正」には、愛国者ほど怒りの声を上げてしかるべきはずだ。最小限の政治感覚は、「愛国」には必須の作法だろう。当人たちでさえ定義しえないはずの(あるいは定義づけの議論を行えば矛盾が露呈するしかない)「愛国心」を基本法として制度化しようとするから、強引に力によって「押し付け」るしかなくなる。与党による拙速な強行採決はその表れである。「押し付け」は「愛国心」そのものを毀損する振舞いである(真の愛国者ならば、そのような振舞いだけは許してはならないはずである)。そして、はからずも強行採決に露呈した「押し付け」構造は、「愛国心」を教える(評価する)現場にも波及していくだろう。なぜなら、教える側の教師にもわからないことを子どもたちに教えてなくてはならない以上、それは無理やりでしかありえないし、また外面的な評価による形式主義によるしかないからだ。(同上同頁)こうして考えると、「心」が「態度」になったのは、批判があったからというよりも、実は評価する上で適しているからかもしれない。なぜ、内心の自由が必要なのかは、また書く。