テーマ:海外生活(7785)
カテゴリ:人物
六月に、ポーランドとの国境、ナイセ川沿いにあるゲーリッツに二週間ほど滞在しました。川向こうはポーランド。現在は国境でのパスポート検査などがなくなったので、気軽にゲーリッツ旧市街地わきの橋をわたって、徒歩でポーランド側に行くことができます。ゲーリッツは今では観光町として、旧西ドイツの人々に人気があります。というのも、第二次大戦で爆撃をまぬがれたおかげで、百年以上の古い美しい建物が残り、それらの多くが東西統合後に改修されたので、町全体が野外ミュージアムのように美しいのです。ユーゲントシュティールなど色々な様式の家が、いかにもヨーロッパの古都といった町並みを見せています。 といっても、町には改修されていない家がまだたくさんあります。東ドイツ時代に建物の手入れがされなかったり、石炭暖房の排気ガスで空気が汚れていたために、これらの家は形は美しいのですが、外壁が汚れたり剥げ落ちていたり、屋根に穴があいていたり、衛生設備が破壊されていたり、屋内が廃墟のようになっていたりしています。こうした家を安く買って、自らの手できれいに改修する人も少なくありません。 ヴェラという女性もこの一人でした。レストランで同席した老夫婦から、屋内が豪華なペンションがある、とすすめられて、町の中央にあるローズ色の小さな家の呼び鈴を押しました。するとタッタッタッと軽やかな足音がして、暑いとはいえ、なんと水着姿のご婦人がドアを開けてくれたのでびっくり。グレーの髪をショートカットにし、体のきゃしゃな彼女は水着姿を恥じる風もなく、「ハロー」とにこやかに挨拶しました。この女性がヴェラです。 「ペンションを借りたいのですが」と言うと、「さあ、さあ、中を見て」と招きいれられました。屋内は噂どおり、とても豪華な雰囲気でした。廊下や浴室の床が、モザイクの大理石で敷き詰められています。四階建ての家の一階と二階の各フロアーをそれぞれ一組の客に貸しているということ。寝室、食堂、浴室からなる一階をどうぞ、と言われました。浴室にはびっくり、なんと十五畳ぐらいもあります。リーズナブルな値段なので、三泊してみることにしました。 ドイツ語ができないらしい彼女と英語で話していると、身長190センチほどもある老紳士が出てきました。ヴェラのご主人、ロバートです。彼はドイツ語がかなり話せます。ロバートは「僕はハワイの大学で教えていた歴史学者だ。東京の大学で教えるために数ヶ月日本に滞在したことがある。ヴェラはロシア生まれのポーランド人なのでポーランドとロシア語と英語しか話せない」と自己紹介しました。 二人はハワイからこの地に移住してきて、廃墟のような状態のこの家を貯金をはたいて買い入れ、ポーランドの職人を使って自分たち(といっても、実際に仕事ができるのは、ロバートより十歳若いヴェラだけ)で、数年かけて改修したのだそうです。まだ裏の駐車場には瓦礫が積まれ、テラスも未完成です。 滞在三日目にロバートが「今晩はクレープに招待します」と言ってくれました。晩にロバートとヴェラが住む三階にお邪魔しました。ダイニングキッチンの中央にすえられたすてきなガラスのテーブルで、マッシュルーム入りのクレープや自家製ジャムを塗るプレーンクレープをご馳走になりました。食事中も二人は、家の改修の苦労話を次々と聞かせてくれます。この建物も文化財保護に指定されているため、外見を変えてはならないのはもちろん、外壁の色も指定され、階段を昇降できないロバートのためにエレベーターを屋内に設置するのも最初は禁止され、ドレスデンの役所に請願してやっと実現したとか。 食事が終わると、ヴェラが「連れ」に向かって「実はお願いしたいことがあるんですけれど」と切り出しました。一階の小さな部屋にある無用のベッドを二階まで、彼女といっしょに運んでくれないか、というのです。お客にベッド運びを頼む率直さがどこか爽快でした。クレープご招待はそのための「根回し」だったようです。「もちろん喜んで」と熟年ではあっても屈強な連れは承諾しました。 ところがこのベッド枠は幅が広くて、狭い階段のカーブの所で頓挫してしまいました。さすがの連れも「これは無理ですよ」と何度も言ったのですが、ヴェラは「ベッドを立てればなんとか」とか「ベッドを斜めにして見よう」とベッドをまたも持ち上げます。ロバートまでが「もうあきらめたら」となだめますが、「いやいや、絶対にできる」と聞きません。鬼のなんとかなんとやら(正確な格言、忘れた)、なんどか試行錯誤している内に、二人はこのベッドを本当に二階まで運んでしまったのです。これはヴェラの性格の一端を暗示するエピソードです。 実はヴェラはこうした意志と実行力の強さを武器に、飢餓と貧困に満ちた子ども・青年時代を生き抜いてきたのです。これは、あとになって知りました。食事中にロバートが「自分も離婚経験があり、ヴェラも前夫との間に息子がいる。僕たちはドイツの結婚紹介所を介してお互いの写真を見て恋に落ち、海をへだてて文通を重ねた末にやっと出合って結婚した」と教えてくれました。そして「ヴェラは僕の人生の最高の女性だ」とさんざんのろけた末に、一冊の本をプレゼントしてくれました。英語で書かれたその本のタイトルはずばり、「Discovering Vera」です。「この本に結婚に至るまでのいきさつと、彼女の辛い子ども時代や若い頃のサクセスストーリーのすべてが書かれている」とのこと。 ありがたくいただいて、フライブルクに持ち帰り、読み始めました。誤植などの多い、未完成のような本でしたが、まるでメロドラマと歴史ドラマを合わせたようなストーリーに引き込まれ、読むのがやめられなくなり、徹夜もしたほどです。このブログでも日を追って、ヴェラの劇的な半生をご紹介していきます。
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