テーマ:海外生活(7785)
カテゴリ:プライベート
もう、十年近くも前のことです。
心臓がふつうでない動きかたをするのに気がつきました。 喉に突き上げたり、おなかをボンと押すように躍動するのです。 むかしから一年に二、三度はこういうことがありましたが、突然、とてもひんぱんになって、数秒間に一度はトクトクと胸を打つのです。 もう十分に生きたから、手術などで寿命をのばそうとは思わないけれど、自分の体で何が起きているのかを知りたい。そんな思いで、心臓医に電話をしました。 ところが、ドイツでは体に何か問題があったら、まずホームドクター、つまりかかりつけの一般医に診断を仰がなければならないことになっています。その上で、場合によっては専門医にまわしてもらうのです。 案の定、心臓医からは「ホームドクターの指示なしでは、こちらで直接受け付けることはできない」と断られてしまいました。 でも、医者嫌いの私には、ホームドクターなどいませんでした。 以前に娘がお世話になった小児科医がやさしい紳士だったので、あるとき 「私のホームドクターになってください」と言ったら、 「なってもよいけれど、あなたは子どもではないから、保険がききませんよ」と言われてしまいました。 あれこれ、思案にくれて、思い出しました。 九年ぐらい前、悪友Fの家にジョギングの半ズボン姿で立ち寄った男性がたしかお医者だったはず。彼については二つのことだけが印象に残っていました。 一つは、初対面の私に向かって、「浮気をしてしまったので、妻にちょっと後ろめたくて」と前後の脈絡もなく、ぽろっと口にした言葉。 もう一つは、「なんのお医者さんなの?」と聞いたときの答え。 「一般医と運動医だよ。でも、すぐに注射や薬の処方はしないんだ。できるだけ時間をとって、患者の話を聞くような医者でありたい」 眼鏡の奥でたれ気味のやさしい目がほほえんでいました。 そうだ、彼なら強引に治療は勧めないだろう。 さっそく予約をとって出かけました。 待合い室の壁には、希望者には自然治療や心理セラピーをおこなう旨が書かれた説明書や「中国針灸師」の免状が掲げられていました。 ミニ心電図を看護婦さんにとってもらって待っていると、ドクターから姓ではなくて、名前を呼ばれました。 わたしを見知らぬ患者としてでなく、いわば「友だちとして知っているよ」という意味です。 「友だちとして知っている」男性に、上半身とはいえ裸をさらすのはあまり気分のよいものではありませんでした。でも、医者にとっては私はただの物体にしか見えないはずですから、恥ずかしがるのも恥ずかしいですが。 「久しぶりだね。いつか街角で君を見かけたよ」 「私もあなたを見かけたのだけれど、きっと覚えていないだろうと思って、話しかけなかったのよ」 「覚えていたよ。僕の方こそ、君が覚えていないと思ってた。Fが僕のところに行けとでも?」 「まさか、自分で決めたのよ」 白衣でなく、シャツ姿の彼と相対していると、お医者と話ているとは思えなくなってきます。 彼は、心電図をみながら説明してくれました。 「これは期外収縮といって、心臓が通常外の形で収縮するんだ。原因はいろいろある。精神的なことで起こる場合もある。たとえば仕事のストレスとか。 このごろ仕事がたいへんなの?」 「ストレスになるほど忙しくはないわ。肉体的には疲れてもいない」 「じゃあ、悩みかなにかあるのかな?」 彼が精神セラピストでもある、という先の張り紙がちらと頭をかすめて、思わず「恋の悩み」とつぶやいてしまいました。 すると堰が切れたように、あとからあとから言葉が流れ出ました。 「悩みなのかなんなのか。苦しいともいえるし、幸福だともいえるし。寂しくなったり、不安になったり。いろいろな想いがぐるぐる回って出口がないの。一番くやしいのは、精神的に相手に依存しているということ。こんな年齢にもなって、くやしいの」 (お若いみなさん、中年女性がこんな小娘みたいなこと言って、ゲーッと思われるでしょう。 でもね、そんなもんなんすよ。人間(というより私)はいくつになっても、精神的には二十歳の頃の程度のままというか、こういう感情に年齢はないというか。) ドクターはむかしより髪の毛は薄くなっっていましたが、あいかわらずやさしい目でこちらを見つめています。 たしか私よりも五歳以上若いはずですが、こういうやさしいお父さんのような表情に、私は弱いのです。 思わず緊張がゆるんで、これまでこらえていたもろもろの想いがあふれそうになりました。机という隔てがなかったら、その肩に寄りかかって、よよと泣きくずれたいところでした。 ドクターは表情をかえることなく、ゆっくりこう言いました。 「いま、話してくれたとき、君は唾を飲みこむようにしたね。 君は心の苦痛を飲みこもうとしている。 感情を無理やり押さえつけると、それが身体に出てくることがある。 心臓の反応もそれかもしれない。 悲しいときは泣けばいい。くやしかったら、あたりの物にボクシングしてもいい。 気持ちを内に閉じこめないで、身体で外に出すことだ。でもうれしいこともあるんでしょ?」 「うん、たまにはね。へへ」 「そういうときは、その喜びも思いっきりあらわすことだ。そして、スポーツをしたり、外を散歩するといい。とにかく体を動かすんだ」 結局、しばらく様子を見て、好転しなければまた診てもらう、という予想どおりの言葉をいただきました。 診療所を出て、やさしい秋の光のもと、落ち葉の上をさくさくな歩くうちに、気がつきました。 薄い織物でそっと包まれたようなおだやかさが胸に広がっているのです。 ホームドクターの治療は有効時間は短かったにしろ、一時的には効いたのかもしれません。 時の力なのか、一年もたつうちに、心臓のおかしなトクトクはなりをひそめました。 それ以後、ホームドクターにお会いしたことはありません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[プライベート] カテゴリの最新記事
|
|