フライブルク日記

2014/11/19(水)06:03

アリス・マンロー、村上春樹

本(11)

一ヶ月以上前の誕生日にBFの姉から、近所の小さな書店の商品券をたっぷりいただいた。 一番大歓迎のプレゼントだ。どんな本を買うか、じっくり検討しようと思っている内に時間がどんどんすぎ、ついに読みたい本がなくなって、やっと書店に行ってきた。良質の本が並び、店員もよく本を読んでいて、お客の質問にていねいに答えてくれる、いまどき貴重な存在のお店だ。 本はネットで買わずに、なるべくこういう地元の店を応援しよう、と友人・知人にもこの店の商品券をプレゼントするよう、心がけている。 今、アリス・マンロー(昨年ノーベル文学賞を受賞したカナダの83才の女性作家)の作品にすっかりはまっている。彼女は短編しか書かなかったために、受賞が今頃になったというけれど、短編でも中身がつまっていて、読後には長編小説を読んだような気持ちになる。 どの作品でも、ことさら大きな事が起こるわけではない。それなのに、先へ、先へと読まずにはいられなくする力がある。 気がつくといつのまにか、読み始めた最初には想像できなかった状況に展開していたり、登場人物の人生がすっかり変わっていたりして、読み手の自分がその人生を歩んできたような気持ちにさえなる。 センチメンタルな月並みな描写や余計な会話はすべて省かれている一方で、細々した日常の描写、ちょっとした出来事のくわしい記述を通して登場人物の心や性格が浮き出されてくるのも、スリリングとすら言える。 話が進む中で、語り手(というか、登場人物の内の誰の目で見た状況が描かれているのか)がひょいひょい変わったり、一つの段落の中でも、語られている時代が前後することがあるので、油断ができない。 ノーベル賞受賞後にドイツ語版が出された「Dear Life」は著者自身が「これが最後」と宣言した本で、最後の4章は「フィナーレ」としてまとめられ、心理的には自伝的な部分が込められているとされている。 ドイツ語版は夏の頃にはまだハードカバーしかなくて高かったので(ドイツでは食材は安いのに、本はとても高く感じる)、安い英語版のペーパーバックを空港で買った。 それ以前に他三冊ほど、過去の作品をドイツ語版で読んでいたが、英語版を読むと、やっぱり知らない表現が多く、しばしば文章も謎めいていて、何度か読み返してやっと意味が納得できたりして、時間がかかった。それでも、原文を読むというのはやっぱり大事なんだろうな。雰囲気が違うから。 今日は新たにマンローの過去の作品を三冊買ってきた。楽しみだー。 商品券にはまだ余裕があったので、他に二冊探した。 村上春樹は日本では賛否両論に大きくわかれるそうだが、ドイツでは大人気だ。とくに女性には年齢には関係なく人気がある。 この書店の若い女性店員もファンらしくて、去年『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」が出た時にも、「すばらしい、ぜひ推薦します」と熱心だったものだ。新聞での書評はイマイチだったけど(「この作品の心情は日本人には理解できるかもしれないが、ヨーロッパ人には伝わらない」とかなんとか書かれていたことがある)。 先日、あるパーティーで隣の席にすわっていた女性(地元新聞の地域記者だった人)も、「ハルキ・ムラカミはすばらしいは。話が月並みでなくて、奇怪な別の世界をもっているから」と言っていた。 うーん。日本人男性が描くシュールな世界が西洋人女性の心を捉えるのだろうか。 昔、「ノルウエーの森」を読んだときには、同世代のもつノスタルジーに同感できた。主人公が次々とモテてしまうのは調子が良すぎるけれど、娯楽小説のように楽しめもした。 「羊をめぐる冒険」もいちおう読んではみたが、わたしの平凡な頭には通じなかった。 「国境の南、太陽の西」がこちらでとても話題になって、これを巡る評論家どうしの喧嘩のために、大好きだった文学番組がなくなったときには、まず、すぐに手に入るドイツ語版を読んだ。性的な場面が描かれる問題の箇所が問題だとは思わなかった。 ところが、後にこれを日本語版で読み直したときには、ちょっとびっくりした。雰囲気がまるで違って、どことなく稚拙で、文章に説得力がなかったからだ。(自分のことはさておいて、他人が書いたものには何とでも言えてしまうけど) ドイツ語版の方が全体として「おとなっぽい」文学になっているところが面白い。 そもそも、翻訳というものには限界があると思う。 言葉はその意味だけではなく、ある雰囲気や人間関係の微妙さをも表現するからだ。 たとえば、若い女性がボーイフレンドに向かって「xx、何を考えてるの?」というのと「xx君、何を考えているの?」というのでは微妙に違うでしょう。女の子が男の子に「君」をつけるか「さん」をつけるか何もつけないかでは。 これが英語版やドイツ語版だったら、差がつけられないのではないか。「国境の南、、、」のドイツ語版は誰かにあげてしまったので、確かめられないけれど、たぶん。この例にかぎらず、文章から受ける登場人物の人柄が、日本語版とドイツ語版ではかなり違ってしまうのが、面白いといえば面白い。 英語とドイツ語では同じ西洋語だから、これほどの差はないかもしれない。どちらの言語も私にとっては母国語でないので、違いがわからないのかもしれないけれど。 まあ、大して読みもせずに「村上春樹はあんまり好きじゃない」と言ってしまうのは気がひけるので、一冊買うことにした。 お値段との兼ね合いで、「ダンス、ダンス、ダンス」のドイツ語版(ドイツ語版タイトルは「羊男とのダンス」)を購入した。 そして最後の一冊はミレナ・ミチコ・フレシャールという作家の「彼のことをネクタイと呼んだ」という意味のタイトルをもつ薄い本。 著者はオーストリア人の父と日本人の母からオーストリアに生まれ、育ったらしい若い女性だ。 本をレジにもっていくと、若い女性店員がこの本を見て、顔を輝かした。 「この作品、とってもすばらしいです。心情が繊細に描かれていて」 この作品を作者自身が日本語にしたら、どういう感じになるのか、知りたいところだ。 そういえば、芥川賞その他数多くの賞を受賞している多和田葉子さんは、30年以上前からドイツに住み、日本語とドイツ語の両方で書いている。 けれども、いくつかの日本語で書かれた作品のドイツ語版は別の人が訳しているところが、おもしろい。 やっぱり最初から一つの言語で書くのと、それを訳すのとでは、まったく状況が違って、同じ作品を二つの言葉で書くのは無理なのだろうか。 わたしは彼女の作品が好きだ。今度、日本に行ったら、最近の作品を買いたい。

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