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洗濯機のドラムが回転するのを、ぼっとして何分間も見つめている間に思ったことがあります。
洗濯機とは全然関係ないけど。 日本のあるすっごく大きくて有名な組織の部長さんが、一頃は何年もの間、毎年お客さまたちを引き連れて、当地に視察に来ていらっしゃいました。 わたしは当時、こうした視察客のご案内や通訳やレクチャーなどをしていました。 この部長さんは本当に気さくな方で、顔にいつも微笑みを浮かべ、ちょっとしたジョークを出してはメンバーたちの心をほぐし、わたしのためにはいろいろな和食材とか、自作の佃煮までわざわざ持ってきてくださいました。 わたしよりも小柄なのに、わたしの重い鞄を持って下さったこともあります。 恐縮して、「どうお礼をしたら良いんでしょう」と言うと、 「体があるでしょう、カラダが」と、いつものノホホン顔で一言。 この方の口から出ると、こういう悪い冗談も無害に聞こえるから不思議です。 「こんなカラダでよろしければ、どうぞ。減るもんじゃないですから」と言いそうになりましたが、やっぱりね、日頃ユーモアに慣れてないので、「何をおっしゃいますか、このオバはんに」とかなんとか、もぐもぐごまかしただけ。 ある時、今度はわたしの方が東京に出向いて、この方の組織が主催する催しで仕事をしたことがあります。 組織の中で部下たちに指揮をとる部長さんのお顔からは、いつものひょうきんさはまったく消えて、厳しくて、ちょっと怖くいほどなので、びっくりしました。 同じ人なのに、場所や状況が変われば、これほど変わるものとは! これがプロなのでしょうね。 わたしの父方の祖父は世間知らずとも言える学者で、他人のことはまったく思いやれなくて、大学でもたくさんの方にいつも迷惑をおかけしていました。 祖父のこのような性格にもかかわらず、最後まで祖父を慕って、祖父の元にしょっちゅういらして下さり、山登りなどにもお伴をして下さった方がいます。 せっかくいらしたのに、祖父が長いこと待たせたり、約束をすっぽかしたりしても、この方は怒りもせず、まん丸いお顔にいつも善良そうな笑みをうかべているので、子どものわたしには、この方が善意のかたまりのように見えました。 祖父の死後、一度この方にお会いしたことがあります。 どこかの中学校の校長先生におなりになっていたこの方のお顔からは、昔のような善意の微笑みはほとんど消えていて、校長先生特有(?)の横柄とまでは言えなくても、しゃちこばった表情のお面をかぶったようになっていました。 あの、他人の心をほぐすようなニコニコ顔も、時と場合によっては出てこないのだなと思うと、ちょっと寂しくなりました。 先生といえば、大昔、二学期間だけ、ある地方の中学校の代替え教員(産休をとった教師の身代わり)をしたことがあります。 そのときにも、驚いたものです。 職員室では初々しくてやさしげな若い新米女性教師、目がぱっちりの可愛い女性教師、ユーモアたっぷりの男性教師たちも、教壇に立って生徒たちを前にすると、先生方に共通して見られる、ある特有の表情が浮かぶのです。 なんと表現したらいいかなあ。慇懃無礼ではないけれど、まあ威厳に満ちた顔とでもいいましょうか。 「甘く見るなよ」という姿勢を無言であらわしているような顔。 見る側が黙ってしまうような顔。 やさしくない顔。 あ、そうそう、ふてぶてしい顔。 あのお目目ぱっちりのやさしい女性の口元がふてぶてしく、微妙にひねられて、やさしさが消えるのです。 それまで教師などしたことなく、家で3才と10才の子どもや夫にだけ相対していたわたしには、すぐには身に付かない顔でした。 こういうの、生徒はすぐに見抜きます。 若い新米女性教師がひとこと怒鳴れば、生徒たちはすぐに静かになるのに、わたしが声を大ににしても、誰も聞いてくれません(放課後の掃除も逃げられて、わたしが一人でした。ウー)。 わたしのようなおばさんがほざいても、、家でお母さんに言われるのと変わらないから、生徒はビクともしないのよね。 一人の生徒が言いました。 「せんせー、もっと厳しくしなきゃだめだよ」と。 わたしは、 「わたしは教壇の上からあなたたちを見下すような姿勢はとれないの。同じ人間どうしとしてしか付き合えないの。 あなたたちが知らないことを教えることはできても、だからってわたしの方が偉いわけじゃないから」 と答えるほか、言葉が見つかりませんでした。 ま、こういうわけで、先生失格だと思って、2学期間つとめただけで、教師生活は終わりました。 マダガスカルに行ったとき、最初の二日間、あるドイツ人男性と彼のパートナー(マダガスカル人の女性)、彼女の連れ子である二人の女の子と彼と彼女の間に生まれた男の子が住む家に二日間泊まらせていただいたことがあります。 この女の子たち(8才、10才ぐらい)はとても可愛くて、やさしくて、言葉は通じないのにわたしにもなついてきました。 マダガスカルでは、生活程度がまあまあ高い家には、家族の親戚などが頼ってきて、家と同じ敷地内にある小屋のような所に住んで、掃除などの下働きをすることがよくあるようです。 この家でも、女性パートナーの親戚らしき使用人とか、親戚の子どもたちが何人も小さな小屋に住んで、毎日必要もないほどの掃除や洗濯(手で洗う)をしていました。毎日するから、もう洗う物も掃除をする場所もないくらいほど。 家の子どもたちが遊んでいるそばで、親戚の「使用人的」子どもたちは働かなければならないのです。 ちょっと奴隷みたいな感じです。 それでも、昼間、ドイツ人男性がいないときには、こういう「使用人的」子どもたちもこの家の子どもたちと遊んだり、テレビを見たりしていますし、この家の子どもたちが小屋の方に行って、遊ぶこともあります。 その様子を見ていて気がついたのですが、わたしにはとても可愛くて、あどけない表情をする女の子たちが、彼女たちにとっては従姉妹である「使用人的」子どもたちに対しては、全然ちがう表情をするのです。 これも、さっきの先生的な表情とどこか似ていることに、わたしは気がつきました。 さっきまでのあどけなさは、どこかに消えてしまって、 「わたしとあんたたちとは身分が違うんだよ」というふてぶてしさを含んだ表情。 こんな小さなときから、こういう階層意識のようなものが植え付けられるのだということがちょっとショックで、この時のことは今でも忘れられません。昔は日本でもそうだったのかな。今もそういうことはあるのかな。 そういえば、このマダガスカル人女性は、ドイツ人男性が正式に結婚してくれないことにいらだっていました。 いつか彼が男の子だけを連れて、ドイツに戻ってしまうのではないかと怖れていたようです。 そうなったら、この女性も、使用人たちから「マダム」と呼ばれて敬われる生活から、また元の生活に戻らなければならないかもしれないからでしょう。 彼女もまた、わたしたちには本当の表情(らしきもの)を見せるけれど、使用人たちにはかなり横柄な「マダム」的な態度をとっていたわ。 マダムが板についたのね。 人は時と場合に応じて、色々な顔をもたざるを得ないのでしょうね。 職場ではそれなりの役職の人間を演じ、家でも父親、母親の顔を演じ、最後にはどの顔が自分の顔なのかわからなくなるのかなあ。 わたしも場合によっては顔が違うんだろうか、、、。 知らない内にふてぶてしい顔をしているんだろうか、、、。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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