テーマ:海外生活(7793)
カテゴリ:opinion
UEFA欧州選手権(って日本語では言うんだな、こっちでは単にEMって呼ばれてる)が進行中。
テレビの通常の番組がこのために大幅に変更されちゃうし、ドイツチームの試合がある日は道路が空っぽになり、大型のテレビスクリーンを置く野外カフェや飲み屋はどこもいっぱい。 準々決勝があったときにはザールブリュッケンという町にいたのだが、ドイツチームが勝ったとたんに町中はコルソ(警笛を成らしながら車を走らせる)でうるさい。15分ぐらいで収まるかと思ったら、1時間たってもまだプープー鳴らして走ってるやつがいる。 準々決勝ぐらいで、こんなにはしゃいでいいんかい? しかも、自分自身が闘ったわけでもないくせに、まるで自分の成果のようにはしゃく子どもっぽさは、男性特有なのかな。 サッカーのファンを見ていていつも思うが、女性のファンもますます増えてはいるとはいえ、とくに男性のファンの行動はとても子どもっぽい。 喜び方、応援のしかた、騒ぎ方、、、、、男性はおとなになっても子どもの属性をたくさん保っているのかもしれない。女性は(実際はともかく、理論的には)子孫を生み育てなければならないから、子どもっぽさを早くに捨てなければならないんだ。 いい歳したオッサンがレストランで、テレビの試合を見ながら、ゴールが決まったわけでもないのに、応援チームのちょっとした成功があるたびに、ラッパの代わりに植物のみずさしを吹き鳴らしていた。ユーモアだと思っているらしかった。 準決勝の対イタリア戦が始まる前、近所のキオスクではおばさんとお客の間でこの試合が話題になっていた。 最初の客におばさんはドイツ国旗の小さなシールみたいなのをあげていた。 次の客(明らかに本物のドイツ人女性)はおばさんに「わたしが応援するのはウエールズとアイスランドよ。この二国に決勝まで勝ち残ってほしいわ。ドイツには勝ってほしくない。あの傲慢さが我慢でいないわ」ときっぱり言っていた。 なるほどな。わたしもこれを望みたい。 ドイツは2年前にワールドカップで優勝したことで、かなりいい気になっている。試合ではかなりモタモタするくせに。 高い金で買われているスター選手いっぱいのドイツチームよりも、無名のおじさん選手がいっしょうけんめいプレーしているアイスランドの方がシンパシーを感じる。 イタリア戦があった晩、テレビで試合は見ずに、別の映画を見ていた。 それでも時々、チャンネルを変えてチラホラ経過をうかがっていたら、なかなか結果が決まらない。ドイツが負けたら、ちょっと面白いことになるなあ、なんて密かに望んでいたんだけれど、ドイツチームってワールドカップでもそうだったけれど、運がすっごくいいのよね。 結局勝ってしまったじゃないの。 フライブルクでは長時間の車のコルソはなかった。ここの市民は冷静なんだ。 残念ながら、アイスランドはフランスに負けてしまった。あー。残念。 サッカー戦に関連して思うのだけれど、わたしのアイデンティティーってなんだろな。 そもそも、アイデンティティーという言葉は複雑だ。辞書には「自己同一視」という訳語が書かれているけれど、この言葉ですぐに感覚としてピンとくる人って少ないんじゃないかな。 アイデンティティーというのは、「あー、わたしってやっぱり日本人なんだ」とか「わたしはいかにも江戸っ子だは」とか「わたしは何々家の人間らしく生きている」とか「わたしは女性」といったような自覚、自己の帰属意識といったら良いかもしれない。 わたしの国籍は今はドイツだ。30年もいるから、考え方や物腰もかなりドイツ的かもしれない。 でも、一方では冷めた目でドイツ社会を観察している自分がいて、そのときのわたしのアイデンティティーは「ドイツで生活するガイジン」だ。 じゃあ、日本人としてのアイデンティティーがあるかというと、日本のメンタリティー、国民性、心情は外からでもよくわかるし、和食に関連した部分ではおおいにアイデンティティーありなんだけれど、日本人としての自覚みたいなものはない。関心はたくさんあるので、現在のような社会情勢や政治情勢にいささか心配になるとしても、つまりは外からの傍観者でしかない。だって税金払うのもドイツ、選挙もドイツだから、責任や義務もこちらの国にあるしね。 そんなことを考えていて、気がついたけど、そもそも自分には帰属意識が薄い。 自分の家族への帰属意識もなかったかもしれない。 林間学校でホームシックになったこともないし(家から離れてせいせいした気分だった、林間学校が楽しかったわけではないのに、だって友だちがいなかったしな)、よその家に泊まって家が恋しくなったこともない。だからホームシックというのがどういう感情なのかもわからなかった。 ドイツに留学したときも日本に帰りたいとかいった、ホームシックは経験しなかった。 それなのに、当市からいったん日本に帰ったときに、はじめてホームシックにかかった。 涙を流して「フライブルクに戻りたい」とダダをこねた。 別にこちらにいる特別の人間が恋しかったのではなく、この町、この社会、この雰囲気に戻りたかった。 そして、実際に戻ってしまって、永住を決めてしまった。 ということは、わたしのアイデンティティーはこの町の社会にあるのかな。 たしかに、サッカーのブンデスリーガでも、SCフライブルクに勝ってほしい。ドイツのナショナルチームに勝ってほしい気持ちよりも、SCフライブルクにブンデスリーガで勝って欲しい気持ちの方が強い。 この度、第二リーグからま第一リーグに再昇進して戻ってきて、ほんとにほっとしたもんな。サッカーファンでもないのだから、この気持ちはひとえにこの町とのアイデンティティーのせいなのだろう。 冷めた気持ちで考えれば、これも一方的だ。わたしがいくらこの町やこの国にアイデンティティーを感じても、相手側はわたしをフライブルク人とかドイツ人とはまずは見ないだろうし、、、。 それでも、いつも驚くのだが、スーパーなどで、ドイツ人のおばあさんなどが、「目が悪くて読めないんだけれど、ここに何て書いてあるの」とか「これは何」とか聞いてくることがよくあるし、町を歩いていて、ドイツ人に道を尋ねられることもよくある。 外見がガイジンかどうかなど気にしないで、同国人に対するように対応する市民がほとんどなのは、とても気持ちがよい。 ドイツで生まれ育ち、自分としてはドイツ人のアイデンティティーがあるトルコ人などがよく、「ドイツ人から『あなたドイツ語がうまいですね』と言われるとカチンとくる」と言う。その気持ちもわからないではない。 自分としては生まれも育ちもドイツ人のつもりなのに、自分のドイツ語を誉められることで「あなたはドイツ人ではなくて、ドイツ語がうまいガイジンなんだよ」と釘を刺されるような気分になるのだ。相手に悪気はなかったにしても。外見もドイツのドイツ人にむかって「あなたドイツ語がうまいですね」とは誰もいわないもんね。 わたしは心のどこかでこう思っている。 アイデンティティーなんていらないんだと。 自分は自分、ただの人間でしかない。何人かだとか、女性か男性かだとか、敢えて決めつける必要はないんだと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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